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20221014 山さんブログ-13回目

…前回の10/6日が私のブログ当番日で、投稿日ギリギリの掲出でしたから、「山さんブログ-幼少期物語-その12」には踏み込めませんでした…ゴメンチャイ…なんせ、前回週は台風が2度発生…二度とも気圧がぐんぐん下がり、「気圧病」の私は、目眩と血圧上昇でグラグラのメロメロ…絶不調週間でありましたからね…

…で、このブログを書いてる今日は10月7日…「山の戦友、命の恩人」の斉藤薫さんの誕生日です…生きていれば71歳…本来なら薫さんがハッピーを抱きしめながら、三人で安価なケーキ付ティーパーティーで破顔しながらの談笑か、ハッピーを残して富士山東急ホテルの最上階でささやかな誕生会をやっていたことでしょう…

…なんせ、ここのところ富士山東急ホテルに嵌まっているものですからね…誰かご一緒して頂ける方がいれば、1週間に1度ぐらいは行きたいですね…最上階からの富士山と三島~長泉~裾野~御殿場方面の景色もバッチリですよ…

…と、前置きはこの辺にして…「日々のつれづれ、その3」に入りますが、前回に言い忘れていたことがありますので、「俳諧三聖人」、松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶、の作風というか、作風イコール「ひととなり」ということですから、私なりの人物評価をしてみましょう…

…必然的にトップバッターは「芭蕉」になります…

…「芭蕉の俳諧」は日本人なら誰でも、幾つかをそらんじることが出来ますから、江戸時代俳諧師の帝王ということでしょうね…そして、芭蕉を敬愛してやまなかった「蕪村」が中興の祖として続き、「芭蕉」と「蕪村」とは一線を画し、世の事象を自由奔放に詠み、風流の極みを庶民にまで遍(あまね)く及ぼした俳諧師が一茶…大まかにはこのような分類になるのかなと思います…

…で、その「芭蕉」の風流は如何に流れたかという、私の独善的見解で言うなら、目に入るモノ、耳に届くモノ、肌に流れる風、それらの自然現象の瞬間瞬間を、あるときは100分の1秒で切り取り、あるときは日がな一日を17文字の一文字毎に色をつけ、音を留め、風を吹きかけ、人々の心に流した…こんな感じが致しますね…時の流れの一コマを優しく掬(すく)い取る…そんな柔らかさを感じますね…

…次に「蕪村」ですが、この「蕪村」の、「芭蕉」への傾倒振りは大変なもので、芭蕉を絶賛、挙げ句の果ては、芭蕉の「おくのほそ道」を写本し、それに俳画(今流に言えば挿絵だね)を差込み、「奥の細道図巻」に仕立てるという入れ込み具合…

…で、この「蕪村」の作風はというと、これがまた凄いんだ(@_@)…

…名刀、「山姥切国広」のような優美な文様を見せながら、「備前長船」か「虎徹」のような切り口で、自分の周りや、時空の一片(ひとひら)を17文字の世界に閉じ込めて、かつ、空を舞わせる、水面を漂わせる…このように感じていますね…芭蕉に比べると、チト、入りにくいというか、誤謬も豊富で、時に私には難しい…そのシャープなまとめ方と、課題の切り口が鋭いですからね…たった17文字に唸ってしまうこと多々…(o・д・) 

…そうそう、「蕪村」が西行を詠んだ俳諧で面白いのがありましたよ…

西行の 欲のはじめや 涅槃像

…というもので、西行が、釈迦入滅の日に合わせるかのように、旧暦2月の満月に照らされた桜の木の下で死にたいよ~(願わくば 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃)…等と「強欲」なことを言ったのは、この「涅槃像」の美しさのせいだ…みたいな意味ですかね…

…で、この二人に比べると、「一茶」はもう、ハチャメチャ…生活の奥の奥まで入り込み、人の息づかい、歩き方、食べ方、指の動きまで、果てはトイレや「ウンチ」までも取り上げて、人を茶化すは、けなすは…もちろん褒めることもありますがね…もう、一茶に触れていると、泣かせる、笑わせる、唸らせる…ホントに面白い、こちらも、やはり天才ゆえの幅の大きさ…もちろん、正調リズムのもので美しく詠まれた俳諧も山のようにありますけれどね…一茶に関しては破天荒振りが発揮されたものが一番ですね…生きてるって感じが弾力をもって波状してきます…

…因みに、この三人…皆が皆、西行の大フアン… …流れを汲んでるんですねえ(=_=)

…皆が皆、西行の後を追い、「西行桜」を詠み…

…もっとも、「西行桜」というのはあちこちにありますからね…

…以上、まるで俳句や短歌のことを分かったような書き方をしましたが、行き着くところ、何が何やらさっぱり分かりませんでね…

…芭蕉も蕪村も一茶も、大部分は日常生活から生じた直感的な思いを575に落とし込んでいるだけで、三人三様の目線や性格の色彩が異なるというだけですからね、誰だって甲乙なんて付けられもせず、久しぶりに三人を取り上げた書物をパラパラ、パラパラ、とめくっても、ため息や笑いや、時に唸ってしまうわけでしてね…どれが誰のだっけ?(-_-;)…と、…もう頭の中はぐちゃぐちゃざんす…その点、西行は分かり易いですね…和歌ですからね…ワカ り やすいのよヽ(゚∀゚)…

…と言うことで、下の写真が今回のパラパラ読本(=_=)(°0°)

ここで一つお勉強タイム

…「俳句」という言い方が定着したのは明治時代以降で、それまでは、「俳句」のことを「俳諧」と言っていたようです…「短歌」も同じでしてね…昔は「和歌」と言っています…「正岡子規」や「高浜虚子」の出現が大きかったようで、…この時代、「夏目漱石」もその仲間だったことは誰でも知ってますね…_(._.)_

…と、いうことで、前回に取り上げた「俳諧師、三聖人」の締めくくりとします…

…因みに、この江戸時代だけでも、名のある俳諧師は300人以上います…それぞれに弟子が相当数いたでしょうから、それらの高弟から庶民へと伝染的に流行る…

…“徘徊”するお爺さんまで“俳諧する”…やはり、日本の民度は相当高かったと言えますよね…その民度の高さを示す面白いハナシがありまして…(o・д・)

…ポルトガルから来た若いキリスト教の宣教師が、1年ぐらいで本国に帰り、日本で布教するためには、自分たちのような若い者でなく、老練な宣教師でなければ、日本の民衆にも言い負けしてしまう…と報告した記録があるようですよ…

…1549年(私、「山さん」の生れが1949年だから覚えているのだ)に、フランシスコ・ザビエルが初めて日本にキリスト教を持ち込んだと言われていますが、彼ら一行もキリスト教の布教が真の目的では無くて、本来の使命は日本侵略への第一陣、いわゆる日本人の奴隷化と日本の富を自国へ持ち帰るための民兵組織みたいなものでしょうか…

日本を植民地として自国に編入する為の足がかりとして派遣されていたのが「フランシスコ・ザビエル」とその一行ということです…私の独善で言っているのではないですよ…そのような記録が彼らの国に存在することが証明されているということです…

…キリスト教を武器に植民地化への足がかりにする…これは、当時のローマ法王も推奨した戦略でしてね…いや、これも記録にあるんですよ…事実、オランダ、スペイン、ポルトガル、フランス、イギリス、そして後年のアメリカによるフィリピンの植民地化を含め、彼らの植民地化政策の第一陣は、キリスト教の伝播から始まっていますからね…

…極めつけは、イギリスの旧領土は56カ国(現在の英連邦は54カ国かな…)、で、その殆どがキリスト教を信奉し、自国文化の多くを消し去られ、言語は殆どが英語…とてつもない支配権を有していたというわけです…現在でも、イギリス王は英連邦15カ国の元首ですからね…

…にも関わらず、日本は、全体としてはそれらの覇権国に蹂躙されることはありませんでした…

…当時以降を含め、アジアのほぼ全ての国が植民地化された時代に、日本だけが欧州列強国の植民地とならなかった「理由のひとつ」が日本人の民度の高さ、ということです…

…もちろん、鎌倉時代以降、集権化が敷衍(ふえん)され、国家レベルでの武力が充実しており、そこそこの都邑(とゆう)まで、その統治が行き届いていたことの証とも言えますね…(°0°)

…七つの海を制したイギリスでさえ、日本を植民地に出来なかった事実に自信を持ちましょう…

…このことは何度も触れますぞ…自信を無くした日本人の再生を願って、「やるぞ~」…ナンたって、私の寿命はあと27年もあるのだ…ヽ(゚∀゚)

…これも以前に言いましたが、秀吉が「バテレン追放令」なるものを強行し、家康がキリスト教禁止令を出すことになった遠因等も、これ(当時のキリスト教宣教使による日本人がターゲットなった人身売買)でしたからね…そして、日本の婦女子は高く売れたということも、当時の覇権国家の古文書に残っているようですから…(*゚Д゚)

…もっとも、近代史において、東南アジアに存在した「じゃぱゆきさん」と言われた女性の多くも売買の対象になリましたが、その殆どが貧農地域の娘さん達であったことが常識的な事実ではありますけれど、大航海時代以降の奴隷化、植民地化の流れの中で、当時ヨーロッパ覇権国家の犠牲になった日本人婦女子も沢山いたという事実が現存します…

…第二次世界大戦の戦勝国(実行部隊はGHQ)に消し去られた歴史を正視しましょう…(=_=)…

…鎌倉時代から始まった日本人の婦女子狩り…その主役が当時の外国人宣教師たち…もちろんその手先になって金儲けをしたのは日本人の悪ども → 私の先祖もその仲間だったのかなあ(≧◇≦)

…で、ここで勘違いしてはいけないのは、戦後にアメリカからどっと入ってきた宣教師等は、人身売買とは無縁で、日本という神格化された「精神世界の土壌転換」を目論んだ「GHQ」の政策の一つに過ぎません…どの国よりも長い皇統に裏打ちされた日本の歴史という、人格形成上の根っこを絶ち、アメリカが統治し易いように、キリスト教による価値観を定着させようとした政策手段の一つであったということですね…良い悪いは別問題です…以上、事実のみ列挙しました…蛇足ですが、善意のキリスト教信者さんとは何の関係もありませんからね…(^_^)

…ということで、② SEO対策の為の「家族信託-その6」…に入ります。

…「家族信託」との比較という観点からの…

…①相続税対策のための生前贈与…

…②遺留分侵害額請求を見据えた、早期の生前贈与…

…③生命保険の活用…

                     について   ですね…

…さあ、(°0°)…腕まくりしていきますよ~(^o^)

…で、またまた、「そもそも論」に戻りますが…

「成年後見制度」というのは、当事者の判断能力が低下し、有効な法律行為を行えなくなってからの手続きであり、方や、「家族信託」を組み立てるというのは、一定の財産・資産を持つ「父母・祖父母(その他を含め)」等が認知症などを発症し、判断能力が衰えた事を理由に「資産凍結」されるという、緊急事態を回避する為の手立てでしたね…

…では、そのような「緊急事態」を避ける為の手立てが「家族信託」しかないのかというと、そんなはずはない…ということなる…その有効な手段として、表題の①~③が考えられるので、力不足ながら、順次、説明させて頂きましょう…

…①相続税対策のための生前贈与…

…まず、早期に生前贈与をしておくと、相続や認知症発症による資産凍結される前に、確実に資産等の移転が完了するというメリットがあります…とはいえ、相続発生の10年前までの贈与は、相続が発生した場合、相続税算出の計算対象になりますが、生前贈与から10年以上が経過したものについては、除外されます…ここに、早期の生前贈与のメリットがあります…

…直近の法改正以前は、何年前であろうが、生前に贈与された全部・全額が相続税算出時の計算根拠とされましたから、この手法を使わない手は無いですね…

…次に、…②遺留分侵害額請求を見据えた、早期の生前贈与…について考えてみますと…

…早期の生前贈与という視点と効果は①と同じですが、相続発生時に、他界した本人(被相続人)が、自分に良く尽くしてくれた長男と、道楽息子の次男の相続金額に差を設けたいと考えて、唯一の資産である現金1億円を、遺言で、長男に1億円、次男には何もあげない、という指定(遺言)をしていても、相続発生後、次男から遺留分侵害額請求を受けた場合、当該1億円の4分1となる、2,500万円(法定相続分の2分の1)は、次男の請求があり次第、否応なく次男のものになります…これが現行法の扱いですから、当該遺言者が取り得る対策は、早期の生前贈与が効果的、ということです…

…で、もう一つの対策が、③生命保険の活用ですね…

…上記の例で言うと、被保険者及び保険料の負担者は他界した被相続人で、死亡保険金の受取人を長男にしておく…この場合の保険金は長男固有の権利として受け取ることが出来ますからね…但し、この場合でも、相続税はかかりますよ、悪しからず…おわり

…んっ(@_@)…腕まくりするほどの内容でも無かったね…オカシイナア(°0°)…まっ、いいか(゚◇゚)

…ここで一首…取り組みの 当初はタシカ 腕まくり 体力持たず 早寝する…

…あ~、つまらん(≧◇≦)

…まっ、今回のブログは、はなから短く纏めるつもりだったからね…丁度良いかな…

…と言うことで、久しぶりに、山さんブログ-幼少期物語-その12に入れるぞ…ヽ(゚∀゚)

…しかし、前回に何処まで進んだか訳が分からんモンで、時系列を無視して、1961年頃に戻りましょう…この年、私は12歳ですから、小学6年か、中学1年の思い出です…

…この年の第3学期の初日、校長先生が、朝礼台に上がるや第一声で、今年は西暦1961年…この数字をひっくり返しても1961年…と、まるで大発見でもしたかのように、この記念すべき年を有意義に過ごしましょう…みたいな新年講話を垂れていたことだけ覚えておりまして、その時の朝礼での私の立ち位置が、前から3番目…教室での座席は最前列…

…先生にワルサをすることもありましたが、授業中は先生の言うことを真面目に聞く、大人しくて良い生徒でした…ただ、成績は、その姿勢とは距離がありましたがね…

…で、その年の少し前あたり、居住地「鰯浜」で一番のお金持ちの家にテレビが鎮座ましまして、近所中の子供が10人以上、その前に並んでいたことも記憶の一端です…タシカ、「月光仮面」の放映が生まれて初めてのテレビ視聴であったように思いおこされます…力が入ると膝が勝手に動き出して、上半身は「月光仮面」の動きに連動していたような…いや、まっこと、カッコ良かったですね…

…続けて、「怪傑ハリマオー」…これは後に知ったことですが、テレビドラマとしては、初の海外ロケが行われたようで、当時は夢物語を見ているような思いでしたね…

…月光仮面も怪傑ハリマオも勧善懲悪物語でしたから、小学生にはとても分かり易く、人気がありました…今、振り返りますのに、私を含めた多くの子供達に正義感という「善性」を目覚めさせた教育番組とも言えますね…

…この「怪傑ハリマオ」、モデルが実在しておりまして、名を「谷 豊」と言います…現地では、「マレーの虎(ハリマオ)として恐れられ、かつ尊敬された日本人盗賊の首領です…

…下の写真はテレビの「怪傑ハリマオ」です…「谷 豊」ではないですよ。

…で、彼(谷 豊)が、なぜ盗賊になったかというと、彼の妹が、華僑の暴徒に無残な殺され方をされ、お金持ちチャイニーズに異常なまでの憎しみを抱いたと言われています…しかし、盗んだ物は貧乏な庶民に与えるものですから、人気沸騰…盗賊団を結成し、一時は500名とも3000名とも言われる若者が彼のもとに参集したと伝えられています…

…その「谷」は、あるとき、タイ南部で、パスポートの不携帯を理由に囚われの身になり、彼に惚れ込んだ、ある娘の親が保釈金を払い、彼は釈放されました(但し、保釈金を支払ったのは日本軍であったという説もあります)…

…ひとときはその娘との結婚生活を始めていたのですが、彼と彼のグループの活躍振りに目を付けた日本軍部の(神本利男)が、彼(谷 豊)と、彼の配下の盗賊団を、日本の為の諜報活動などに関わらせることに成功します…

…因みに、当時の日本の戦争目的は、アジアを白人列強から取り戻し、各国が独立を果たし、アジア圏として纏まろうという大きな目的がありましたからね…ですから、あの、第二次世界大戦は、日本名では「大東亜戦争」と呼びました…方や、アメリカからの呼び名は「太平洋戦争」…

…ハナシを「谷 豊」に戻しましょう…

…日本の為に活躍していた「谷」でしたが、残念なことに31歳の年にマラリアに感染し、日本軍が提供を申し出た、マラリアの特効薬「キニーネ」の使用を拒み、マレーの伝統的治療を受けましたが、その甲斐無く死亡…

…この時、最後まで「谷」に付き添っていたのが、彼を説得した「神本利男」であったと言われています…彼、「谷豊」は、この以前より、身も心もマレー人になっていたということですね…このハナシも詳述すれば長くなりますから、この辺で締めましょう…

…この時代のテレビドラマで、もう一つ思い出すのは、大村崑さんが主演した「とんま天狗」です…

…これはもう、笑い笑いの連続であったように記憶しておりまして、でも、ナシテ、「とんま天狗」の、性は尾呂内(オロナイン)、名は南公(ナンコウ)…なんじゃろうと勘ぐっていたのはしばらくの事で、スポンサーが大塚製薬、商品名が「オロナイン軟膏」…まったく、当時の製薬会社のカシコサというか、いや、マイリマシタ~、いえいえ、私は、ヤマシタ~、いや、これはジャマシタかな…(*_*)

…これ以外でも、「鉄人28号」、「鉄腕アトム」、「鞍馬天狗」、等など、子供達のヒーローは、皆、優しかった…

…と言うことで、今回は短めに終了…あ~、楽ちん楽ちん(*゚∀゚)

…ここで一首…あの頃を 思えば楽し 吾もまた 鞍馬天狗と 月光仮面…

 

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