20231202 山さんブログ-その65
…さて、今回の課題は趣向を変えて、幕末の志士、「橋本左内」について、その生涯を少しだけ覗いてみたいと思います…
…で、なして突拍子もなく、この幕末の志士が出てくるかと言いますと、日々、ちょい読みしている書物の中に、この橋本左内が14歳(今の15歳)の時に書き上げたという「啓発録」なる思想書とでもいいますか、人間学の珠玉に感じ入りましたもので…いやはや、昔の日本人は子供でさえ、マッコト深く深く勉強していたものだと唯々感服するばかり…
…この橋本左内という名前は中学か高校の教科書でチラチラっと出ていたようにも思い起こされますが、もとより深くは知りませんで、その後、歴史小説などで名前とその生き様には何度か再会して参りました…
…とは言え、そのレベルで知っていたことと言えば、当時の英傑…横井小楠、藤田東湖、西郷隆盛等との交流が有り、いずれも日本の将来が如何にあるべきかに生死をかけて活動していたこと…それが祟り、「安政の大獄」で25歳か26歳辺りで刑死したことぐらいでありまして、「安政の大獄」そのものの経緯も掘り下げて学んだわけでもありませんでしたね…
…もっともこの歳になってみると、当時の時代背景や時々の事象も多少は知る得る部分もありまして、時代が大きく変化すると時というのは、眠れる獅子が一斉に目覚めたように、知性と英傑が輩出されますね…
…目線を変えてみると、さも平和そうに見える現代においては、日本人のDNAに蓄積された叡智が目覚めることは無いという「惰性」だけかもしれません…ま、現在の世相が緩んだり乱れたりするのも、平和時代の「芥(あくた)」みたいなもので、私の生活に「活」が入らないのも時代に責任を転嫁している次第…(_ _)m
…で、この橋本左内の「啓発録」なるものは、この歳になって初めて知り得た体たらくで、改めて、幕末前後の人材沸騰に感歎するばかり…当時の若者の多くが、今で言う政治活動に命をかけておりましたからね…やはり、時代変化の色合いが濃かったのですね…
…で、自分自身の学習のために、橋本左内を探索してみますと…左内の生れは、1834年(天保5年3月11日、旧暦です)4月19日、福井藩奥外科医で、25石(1石は2.5俵、1俵の感覚的な現在価値は20~30万円、価格じゃないよ~(*^_^*))5人扶持、橋本長綱の長男とありました…生まれ場所は、越前国常磐町…弟は、後に陸軍軍医総監を勤め子爵となった橋本綱常という偉人だとか…
…この左内…大阪の適塾で蘭方医の緒方洪庵に師事したとありますから、今で言う、秀才中の秀才であったようですね…緒方洪庵については誰でもその名を知るところで、感染症、特に天然痘については、妻を被験者としてワクチンの安全性をアピールしたように知り得た記憶がありますが、時代小説での脚色か、私の思い違いかもしれません…
…ともあれ、この緒方洪庵が日本の予防医学の先駆けであったことは間違いないようです…商人の資金援助があったようですが、貧しい人からはお金を取らなかったということで、テレビの「赤ひげ先生」のモデルではなかろうかとも思ったり…
…で、話を元に戻しましょう…
…左内は、7歳で漢籍・詩文と書道、8歳で漢学を学び、短い人生ながらも終始、学問と武道に励んだようです…で、14歳(当時は陰暦で今の15歳)のとき、「啓発録」を上梓…論語に、十五歳にして立つ…とありますが、まさしく当年、彼の精神は完全に自立したということになりますね…因みに、私の精神的な自立は25歳前後かと考えます、それも甚だ中途半端な自立…
…まっこと、あの当時の少年達の早成たるや、目を見張りますね…
…で、その言わんとする論旨を「五訓」として取り上げ、一に立志(志を立てよ)と筆に起こし、二に振気(気を震わせろ)を、三に勉学(そのまんま、学に勉めよ)を、四に去稚心(稚心を去れ)、五に、択交友(友を選べ)…との啓発を自らに課し、またそのように生きた青年です…
…で、刑死する直前の辞世が…
二十六年、夢の如く過ぐ
顧みて平昔を思えば感滋(かんますます)多し
天祥の大節 嘗(かっ)て心折す(心の支えを失うこと)
土室 猶吟ず 正気の歌 獄中作 橋本左内 とあります。
…なお、上記の五言詩の意味は、中国、南宋末期の詩人、文天祥が、元軍と戦って捕らえられ、1280年頃の中国の大都の獄中で作った五言古詩に擬え、正気が存在する限り正義は不滅だとして、民族の前途に対する希望的願望と自信を歌った「正気の歌」に、左内自身の心境を落とし込んだものだと言われている…とのこと…
…で、この歌そのものの意味は…
…26年の生涯は夢のように過ぎてしまった…過ぎ去った日々を振り返れば、しみじみと心に感じることが多くある…私は、中国南宋末の忠臣、文天祥の忠誠心に常々感服してきたけれど、自分が今、文天祥と同じように土牢(つちろう)に囚われていると、かつて「正気の歌」を吟じ、宋朝に殉じた文天祥のことが強烈に忍ばれる…と言っているわけで…
…そもそも、橋本左内と文天祥との時代は600年ほどもの開きがあるところ、左内の時代の若者たちは、いったいぜんたい、どれ程の強靱さで勉強をしていたのであろうかと不思議な錯誤をも覚えますね…でも、これこそが日本人のDNAに刷り込まれた勤勉さでもありますから、戦後の教育方針がどれほど私たちを堕落させたのであろうかと地団駄踏む思いです…
…もっとも、わたし自身の堕落振りは教育のせいではありませんで、啓発録のいう、「志」の未成熟そのものに原因があります…
…ところで、「安政の大獄」で刑死した偉人に、吉田松陰も代表的なその一人ですね…「安政の大獄」では、多くの賢人(国の財産)たちが、言われ無き罪状で命を落としました…勿体ないことでしたね…
…話を戻しましょう…
…後年に「啓発録」の序文を記した左内の親友でもあった「矢島皞(やじまこう)」は、左内についてこのように語っています…当時の橋本左内は、学友が激論しているときも常にうつむいて行儀よく座り、皆の話を黙って聞いているような少年で、自分の学才を表に出さず、沈思黙考しているような人物だった…と。
…この「啓発録」について深掘りすれば、またまたブラックホールに吸い込まれてしますので、五訓のその五に言う、友を選べ、に言うところの「益友」についての抜粋をしましょう…その益友を判断する目安として…
厳格で意思が強く、正しい人であるか
温和で人情に篤く、誠実な人であるか
勇気があり、果断な人であるか
才知が冴え渡っているか
細かいことに拘(こだわ)らず、度量が広い人であるか
…を基準にしております…因みに私(山さん)は全項目で失格…しかしながら目指したい人間像でありますが、なんせこの歳…死ぬまでに間に合いませんね…で、そのような友人を得たならばその人の人生の意義が成就したも同様、とのこと…このような教育が現在の学校・家庭教育の骨格に座れば、世界に対する日本人の価値は、高騰する金価格の何倍もの信用力に満たされることでしょうね…
…ふむっ(-_-;)…教師になって、そのような熱血漢になりたかったなあ(*^_^*)…と、独りごちしつつ、本日の義務を終了します…