20231212 山さんブログ-その66
…私事ですが、12月12日は吾が孫、菜々美が6歳を迎える誕生日…この孫…1歳半の検診時に心臓に穴が開いていることが判明し、将来が危ぶまれたものです…その結果を聞いた折は、「ああ、この子はもう長くは生きられない」と覚悟したものです…悲しかったですね…で、1歳10ヶ月目に手術を行い、今日の日を迎えています…しかも至って元気な様子…激しい運動は無理でしょう、と言われたものの、そのような気配が感じられないほどです…で、その手術の際の「穴」の直径は3センチ…生命力の偉大さや不思議を感じます…
…さらにこの、1212 という数字は、箱根の金時山の標高…4年前の秋に友人と登山したときに、山頂で「ふう~」と言った瞬間…「金時山、1212㍍」という文字が目に入り、「あらら(*^_^*)のらっ~、孫の誕生日だ」と言って、訳もなくはしゃいだものです…
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一方では、去年から親しくさせて戴いている知人(今は友人)の一人娘さんが、ガンを患い、現在は自宅療養中…朝な夕なに、その娘さんの病状が緩やかならんことを祈る毎日でもあります…その友人ご夫妻のお気持ちを思うと涙がじわじわと滲んでまいります…どうかどうか快復へのリズムに満たされて欲しいと願うばかりの毎日でもあります…
…(-.-)(-.-)(-.-)…
…話題を変えましょう…
…つい最近のことですが、ある偉人について、無知界から有知界へと、また一つ新たに知り得たことがあり、大変感動を覚えましたのでご紹介しましょう…
…その名を、長久保赤水と言います…
…江戸時代、かの伊能忠敬より半世紀も前に本格的な日本地図を完成させた人の話です…そんなことは学校教育でも、その後の学習機会の中でも触れたことがなく、ほんの数日前に知ったばかり…情けないやら恥ずかしいやら…
…で、このオン方…特別に測量技術に秀でていたわけでもなく、ましてや伊能忠敬のように日本中を走破して作成した訳でもありません…旅好きではあったようですが、山伏や飛脚、その他日本中を駆け巡る必要のあった人々(商人なども)からの伝聞や体験記から憶測し、採寸し、学問的な考証に考証を重ねながら作成したもののようです…
…とはいえ、35歳前後からは、本格的な測量技術を学んだとありますから、下記の地図などはその成果でしょうね…下のカラー地図は、75歳での第2版のようです…見事ですね m(_ _)m…さすがに北海道は描かれていませんけどね…で、彼の凄さは、この地図作りは人生の余技だと言うのです…本職は儒学者…儒教の教師ですが、地政学、文学、天文学などにも造詣が深かったようです…根っからの学者ですね…もっとも、地図作りは余技だと言いながら、地図の落款には「千古一業」と押されているようですから、大事業であることをも謳っていたのですね…
…しかし、水戸藩と言えば朱子学…政治的にも生命的にもよくぞ生き延びたものだと思います…
…で、この地図を目にした瞬間は…「あらっ、この地図は昔、どこかで見たことがあるぞ」との感触を得たものの…当時はただの古地図として、漠然とした感慨だけであったようにも思われ、記憶の断片がヒラリと舞った程度だけ…の、この地図は6色刷のカラー印刷ですから当時としては最先端技術により作成され、日本で一番美しい地図と言われていたとのこと…
…寸法は84センチ×135センチ…24折りにして使用することが出来たようです…当時の和紙技術の高さを物語る一面ですね…かの吉田松陰も、その他の幕末の志士たちもこの地図を持って旅をしたことが判明しているようです…地図の大衆化の走りですね…私塾や藩校の壁には殆ど貼られていたようです…吉田松陰が兄に充てた手紙には、これ(上記の地図)が無くては動きがとれないと言って重宝したようです…
…現在でも、その地図のレプリカが¥1,000円で販売されています…
…因みに、伊能忠敬の地図は幕府が公に市販することを鼻より予定しておらず、使用していたのは幕府の関係者だけ…それも相応の肩書きのあった一部に限られていたのに比べ、長久保赤水の地図は当初から市販されたようです…販売当初は、1枚、25両であったとか…1両で、米1年分は変えた時代ですから、現在の価値では如何ほどでしょうかね…
…でも、吉田松陰が購入した頃には、現在の5,000円くらいで買えたと言いますから、大量に印刷されたようですね…
…また、この地図には、現在、韓国が実効支配する「竹島」が明記されていたことから、戦後、1945年のサンフランシスコ講和会議では、我が国が敗戦国としての参加であったものの、会議に参加した49カ国からは竹島が日本領であるとの承認を得られたようです…(言っときますが、私め、この竹島問題を政治問題として取り上げたわけではありませんからね(-_-;))
…で、この長久保赤水…出は農民ながら、後に第6代水戸藩藩主(徳川治保)の侍講(じこう)を勤めた程の秀才(61歳での抜擢)…この侍講というのがどれ程のものかと言うと、明治時代なら天皇や東宮(皇太子)に、和、漢、洋の書物を紐解いた、というか、ようは、天皇や皇太子の教育係、いや、先生です…いやはや、恐ろし程勉学に励んだ人生のようです…
…しかも、本人は幼い頃に、祖父、祖母、母、父、弟と早々と血族との死別を経験しています…超、苦労人のようですよ…その間、農作業の傍ら、母や、母が他界した後は後妻の「感」という人から読み書きを学び、古今の書物から薫陶を受けたようです…同じ農民の友人にも恵まれ、裕福な友人から書物を借りて学ぶことが出来たようです…藩校で学び始めたのは14歳からですから遅いですよね…その後は生きた英才からあまたの刺激と影響を受けたことでしょうね…(-.-)
…ともかく、その努力たるや凄まじいばかりです…幾つかのエピソードも命がけ…、武士の身分を得た1年後には、農民の窮状に思いを馳せ、一族郎党死罪になる可能性があった藩主への直訴(代官の悪政を断罪しつつ徴税法(?)改正を目的とした内容)を経て、以後、水戸藩の年貢制度が改まったようです…藩主の人間的な器も大きかったようですね…1782年に東北の農村を襲った「天明の大飢饉」の折にも、それ以前に赤水が藩主に進言し、義倉(ぎそう、今で言う穀物倉庫ですね)を創設しておく等、事前の策が奏功し、水戸藩の餓死者は最小限に抑えられたとのことです…
…彼が水戸藩主から任を解かれたのは、ナント81歳のとき、本人が没する3年ほど前…体調に大きな変化もあったのでしょうね…しかし余りにも有能であったため藩主もなかなか手放せなかったようですね…で、思うこと有り…(私もそんな有用な人間になりたいものだ…と内なる声が木霊(こだま)する(=_=))…ふむっ(-_-;)、脱線した…
…ともかくだ、そんな彼が、なぜ教科書に載らなかったのでしょう…不思議ですね…GHQの謀略かな…で、戦前の教科書には載っていたのかな~、で、そんな彼が政治的・社会的な評価を受けたのが、彼の死後110年後の明治44年…ますますワカラン…(-_-;)…因みに、評価は、従四位の叙勲…30段階ある中の、上から9番目か10番目の位階…大名レベルの位階で、花の盛りの石田三成でさえ、従五位でしたからね…凄いね(-_-;)…子孫はびっくりしたでしょうね~、一躍貴族の仲間入り…
…で、調べてみました…近年に従四位に任じられた文化人等では…作家の吉行淳之介(故人)、歌手の藤山一郎(故人)等がいます…ひと昔前なら「男爵」…ということでしょうかね…現在では憲法で禁じられた爵位…功績を後代に残すために、爵位があっても良かったと思うがな~、でないと立派な生き方をした人たちの真実や事象が消失してしまうからね(-_-)…もっとも現代でも叙勲制度自体は健在だね…但し、その栄誉は一代限り…寂しいね~(-_-;)
…しかし悲観することばかりでもなくて、令和2年には、「長久保赤水資料館」の693点が、国の重要文化財に指定されたとありました…高萩市とその関係者の努力のたまものですね…おまけに、どこぞの中学か高校の教科書にも、やっとこさ掲載されているようにも聞いておりますから…蒔いた種が芽を出したというところでしょうか…臥薪嘗胆、250年…まっこと素晴らしい…(*^_^*)(^^)/~~~
…で、その手の素晴らしさとは無縁の私は、今日も午後出勤…これでいいのだ(~o~)…