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2024012 山さんブログ-その77

さても…私のブログが77回目…この響きは何故か懐かしく、テンポ良く感じます…その昔、アメリカのドラマで、確か、カルフォリニア州の何処かの海岸を舞台にした「サンセット77」というテレビ番組が流されており(調べたら1958年~1964年でした)、日本とアメリカとの景色、人、物等の異なりようや、お金持ち度の違いに目を見張った記憶があります…今回のブログと何の関係もないですけどね…そんじょそこらにいないドエライ男前が揃っていたように思い出されます…

…で、前回のブログ公開日に、静岡県知事が急遽辞意を表明した激震があり、今回のブログで、その事実と、事の顛末を深掘りすることを表明しておりましたら、まあ~(*_*)、各界から山のように叩かれておりましたね…テレビと言わず新聞と言わず、バラエティー番組でも大騒ぎ…んで、高々、一人の知事の引退宣言がナシテあれほどまで騒がれたのかという根拠は明白でした…私が深掘りするまでもありませんね…

…結論から申しますと…1960年に開通した東海道新幹線開通以降の次世代交通網の構築に国運を賭けた「リニア中央新幹線」の麹や→違った(*_*)…ここは「工事」の文字だな…その工事や開通が「静岡県知事」一人の反対で頓挫していたことが挙げられます…

…んで、川勝知事が辞職を余儀なくされた理由が、当初からの県議会との軋轢や、何よりも度重なる「本人の舌禍」にあることが要因であることが明白とは言え、会見の席上、彼が表明したのは「リニア中央新幹線」開通が2027年予定から、2034年に延期された事を受け、「自分の役目が果たせたので区切りを付ける」という趣旨のものでした…

…これには、人の良い「山さん?」も、さすがに…「はあ~(-_-;)(+_+)??????」という感じで、この人は何を言ってるんだ???(ё_ё)…と、頬をつねりはしませんでしたが、吃驚(゚Д゚)しつつ、呆れかえること、天から地へ三往復…と言う感じでしたね…

…そもそも、川勝知事が静岡工区の工事開始を認めなかったのは、工事がもたらす自然環境の破壊と阿部川水系への「水」の還流問題でありましたが、JRが提示する解決策を悉く突き返して、「後は野となれ山となれ」と言わんばかりの遁走です…しかも辞任することの最終理由が、工事の延期が決定されたことで、「私の役目・目的が達成されたから」…だと…

…まったく、トンデモ8分アルイテ5分…フザケルナ~(>_<)、と言いたくなるのは、私ではなく、彼の支持者たちです…考えてみれば、静岡県職員の入所式での舌禍(たちの悪い失言)も、もともと「彼の心と思考の中にあった本音」の、箍(たが)が緩み、つい、ポトッと零(こぼ)れ落ちただけのことで、そのひと言を撤回したところで、発言の事実が消えるわけでもありませんからね…まして彼は政治家…政治家の言葉はペンより強いのです…もう少し賢いと思っておりましたが、私と同じような気質があるようですね…可哀想な彼、気の毒な僕…

…で、辞任は、今ではなく、6月だと…成る程…6月まで知事の職にいればボーナスは出る…ま、知事も生活がありますからね、由としましょう… と、緩んだ感覚で見つめていましたら、4月10日に、議会議長に辞職願を提出したとか…ホントに、コロコロころころ、方向性を変える方です…尤も、「君子は豹変す」とも言われますから、やはり、心ある「君子」だったようです…

…で、この事件も、静岡新聞に限って見返しておりましたら、4月3日~4日をピークに、他にこれと言ったトピックが無いもんだから、川勝知事の顛末で溢れておりましたね…で、7日を最後に、記事は見当たらなくなりました…まるで熱いものが冷めたように消失してしまいましたね…

…ま、政治も県民の生活も留まることなく流れていますからね…それにしても、川勝知事と一部の支援者の工事反対で工事はもとより、開通延期となった「リニア中央新幹線」で見込まれるはずであった、延期7年分の収益の損失、そしてその間も欠かせないメンテナンス費用、そして消失する7年間分の老朽化による損失額…この間の費用を賄うための国民負担はいったい何千億円になるんじゃろう…(-_-;)…そして、その負担按分として、私は幾ら支払うことになるんじゃろうか…(ё_ё)

…因みに、京都大学藤井研究室と国土交通省とで開発した「MasRAC」というシステムでリニア新幹線の経済効果をシュミレーションした推計値が公表されています…

…これによると、「名古屋と大阪間」での経済効果だけでも、年間7兆円、一日あたり、約200億円とのことです…東京から名古屋間の開業効果も含めると、一日、400億円から500億円になりますかね…但し、この金額は、川上から川下までの波及的数字ですからね…誰かの収入ではありませんけどね…

…ともあれ、リニア工事着手反対の理由が一貫しないまま反対し続けた理由は、ひょっして…彼の代表的支援者であるスズキ自動車の鈴木会長が、この「リニア中央新幹線」の主たる推進役であった、昔の国鉄総裁、葛西敬之と、メッチャクチャ仲が悪かったことと関係があるんじゃろうか?…と、器の小さい私(山さん)は、ゲスノ勘ぐりをせずにいられないのです…まさか、リニアの停車駅が静岡県に無いから…なんてことも無さそうだしね(-.-)…だってね、アルプスの山の中に駅なんか造れないだろうし…

…となると、川勝知事が鈴木会長の代理人として、葛西敬之との遺恨に一矢(いっし)報いた…存外、ここらが事の顛末であったりしたら、私は許す…何故、許すのか…鈴木会長に受けた恩を返した…ということであれば、まだ人間らしさを感じるというものです…ふむ(-_-;)…いよいよ私はアホだな…

…でもね…その昔、スズキ自動車の鈴木会長は、「リニア新幹線」を猛反対していましたからね…あながち、外れていないかも…(=_=)

…ということで、この話はここまでにしましょう…

…次なるテーマは…これがまた、モグラ叩きの「もぐら」なみにテーマが頭を出しますね…さて、何を取り上げようか…月刊誌「致知」のハナシも、どれも秀逸…ホントに素晴らしい内容ですし…

…前々回に取り上げた書籍「ザイム真理教」が、著者、森永さんの遺作になるであろうと考えておりましたら、本人が、遺作のつもりで「命」をかけて書き上げました、という、「書いてはいけない(日本経済墜落の真相)」という書籍が、3月20日に発行されております…書いてはいけないと言いながらシャーシャーと書くところが彼の可愛らしさでもあるから、まっ、いいか(^^)/~~~

…2024年3月20日、初版発行の温々(ぬくぬく)です…

…と言うことで、森本君の本の内容もご紹介したいのですが、もう一冊、医師の井上正康博士が上梓した「WHO脱退」…これもヌクヌク、且つ、まとも目線の激しい内容本ですからご紹介したいのだ…あ~、どれにしようか?(*_*)

…指が写っているのは、今まさに読んでる最中なもので、表紙が浮き上がるのだ…

…と、迷ってはいるが、今回は目線を変えて、毎回注視している、伊勢雅臣さんのメルマガから引用します…ここでは、私(山さん)からの能書きは割愛したほうが良さそうです…内容は読んでのお楽しみ…

…以下、伊勢雅臣の呼びかけから…

…アインシュタイン、カール・マルクス、ヘンリー・キッシンジャーなど、歴史に名を刻む「ユダヤ人」たち…あなたは、彼らの優れた才能の秘密をご存知でしょうか?

…それは、生まれつきの“遺伝子”…ではなく、彼らが信じている“教え”にあるといいます。

…彼らの“教え”には何が書かれているのでしょうか?

★届かなかった手紙~あるユダヤ人から「杉原千畝」へ~

杉原に贈る祝福、From:ボストン大学のヒレル・レビン教授からの手紙(但し、このとき、杉原千畝は既に他界しております)…

1.あなたは彼らの運命を心配してくださった

…『あの時代、突然に、ユダヤ人は西欧文化から放り出されようとしていました。その西洋文化を創り出すのに、ユダヤ人が力になっていたというのに—。

…そして同時に、「お前たちユダヤ人は余所(よそ)者だ」、と非難されました…ユダヤ人は破壊的な余所者で、強欲で、好色で、社会から一番いいところをもらうばかりで、何の貢献もしないといわれました…しかし、あなた(杉原千畝)は違っていました…彼ら(ユダヤ人)を迎え入れてくださった…あなたは、ユダヤ人を母として、父として、子供として、思い出を大切にし、希望を抱く人間として見てくださった…あなたは、彼らがどこで眠るのか、どうやって暖をとるのか、と、気にかけてくださった…彼らの運命を心配してくださった…そう、心配されたのです…憎悪で対立していた世界で、それは当時の時代背景に照らすと希有のことでした…

…と、書き出されたこの手紙の「あなた」とは、杉原千畝…1940(昭和15)年、リトアニアの在カウナス日本領事代理として、逃げ場を失ったユダヤ人に2139通の日本通過ビザを出し、その何倍かの人々の命を救った日本人です…ここまでは誰もが知る、勇気ある日本人の物語です…今回のブログで、なぜこのハナシを改めて紹介するかと言いますと…この事実が、当時の日本政府が公認していたと言うか、万民平等を敷衍していたのは当時の軍部を含めた日本政府の方針であったという事実を見直すためです…

…このハナシが、何故、「杉原千畝」一人の功績になったかというと、アメリカによる捏造があります…アメリカとしては、当時の日本が、まるで正義の国であったように映る事実は、表に出せません…で、この事象については、「杉原千畝」一人の善行に見せかけることにしました…以下、その事実を展開してゆきましょう(-.-)

2.杉原に贈る祝福

…手紙の主、ボストン大学のヒレル・レビン教授は、現代のアメリカを代表する歴史家と言われる…1993年2月、教授はリトアニアの首都ビリニュスに設立されたユダヤ研究所の講義に招待されました…そのおり、教授はカウナスで、杉原がユダヤ人難民にビザを発行した領事館の建物を訪れた…

…『私はその場に立ちすくみ、零下20度の寒さの中で、あるユダヤ教の導師の言葉を繰り返していた…「私たちの祖先に奇跡が起きたところに立ったなら、人は祝福を送らなければならない」…では、日本人の官吏・千畝に、私はどんな祝福を贈ればよかったのだろうか…。

…冒頭の手紙は、このとき、すでに7年前に他界していた杉原に宛てたものです…「あなたはなぜユダヤ人を助けたのか?」、レビン教授はこれを明らかにすることが、杉原への「祝福」だと考えた…杉原の遺族、友人、同僚、救われたユダヤ人たちなどを尋ねて、教授は世界中を旅した…そして杉原の実像が徐々に姿をあらわしてきた。

3.逃げ場を失ったユダヤ人

…「ユダヤ人が西欧文化から放り出されようとしていた時代」、「憎悪で対立していた世界」とはどのようなものだったのか…1939年9月、独ソがポーランドを分割し、大量のユダヤ人難民が発生した…

…『ソ連の国境警備兵は、越境しようとする者を片端から射った…他方、ナチスの国境警備兵は、戻ってこようとする者を片端から射った…二つの火線にはさまれた不運な難民は、国境沿いの無人地帯にとどまるしかなかった…そうこうしているうちに、厳冬になり凍死者が続出した…ユダヤ人難民たちは、「東欧のスイス」と呼ばれたリトアニアに逃げ込んだが、そこも40年8月にはソ連に強制的に併合され「屠殺」が始まった。「カウナスの樹という樹には、必ず誰かが吊されていた」…

4.ユダヤ人お断り

…逃げ場を失ったユダヤ人たちに国際社会は冷たかった…1939年6月、ユダヤ難民1128人を乗せたセントルイス号がハンブルクを出港してアメリカに向かったが、アメリカは入港を拒否した… ほとんどの乗客が正規の書類を持ち、アメリカの親戚が経済的責任を負うと保障したが、一人として上陸できず、船はホロコーストの待つヨーロッパに戻る事になった…この呪われた航海は「ユダヤ人お断り」の象徴となり、後に映画にもなった…

…カウナスのアメリカ領事館にも、ユダヤ人のビザ申請が殺到したが、「移民の割り当て枠がない」、として領事館は申請受付を停止した…しかし、領事自身が「現実にビザが発行されたのは、移民割り当ての49%だった」と認めている…またポーランドの、1939-1940年の移民割り当ては6524人だったが、うち5千人分の枠が手つかずで残された…同様に、イギリスもユダヤ人のパレスチナ上陸を拒否し、スウェーデンは15歳から50歳までの男性ユダヤ人は兵士になる可能性があるから同国の中立性を脅かすとして、通過ビザさえ認めようとはしなかった

5.1分ごとに生命が救われているのを見た

…「世界はアメリカを文明国という。私は、世界に向けて、日本こそがさらなる文明国だということを知らせましょう」…ユダヤ教の導師、E・ポートノイに、杉原はこう語った…ポートノイはミラー神学校の生徒300人分のビザを手に入れようと、アメリカ領事館にかけあったが、「割り当てビザなど一枚もない」と突き放されたばかりだった…杉原がポートノイの長い話を聞き、ビザの発行を約束して、握手し、いつもの微笑を贈った時は、信じられない思いがした…ミラー神学校の生徒ズブニックが300枚分のビザを貰いにやってきた時には、日本領事館の前にはユダヤ人の長蛇の列ができていた…杉原のドイツ人秘書が、こんなに大勢は処理しきれないと音をあげると、ズブニックが手伝いを申し出た…杉原の横でビザ発給を手伝いながら、ズブニックは1分ごとに生命が救われているのを見たそれはズブニックにとって「生涯最良の2週間となった」

6.彼は手を挙げ、大丈夫と微笑んだ

…当時16歳の娘だった、L・カムシは、レビン教授にこんな思い出話を語った…『日本領事館の前は延々長蛇の列だった…皆、それぞれに不幸な物語をかかえていたが、決まった行き先も、国も、お金ももってはいなかった…杉原は、私たちの両親のことを聞いた…父は亡くなり、母は書類を持っていないと答えると、非常に気の毒そうな顔をしてくれたので、この人は親切だと思った…彼は頷き、旅券にスタンプを押してくれた…

…私たちにとって、政府関係者とは恐い存在だったので、領事館にいた間中、神経質になり、怯えていた…私たちはただ、ポーランド語で「有り難う、有り難う」と言うだけだったが、彼(杉原)は手を挙げ、大丈夫と微笑んだ…事務所を出るとき、私たちは感極まって泣いてしまった…外にいた人々は、そんな私たちを珍しそうに見ていたが、背中を軽く叩き、幸運を祈ってくれた人もいた…

7.日本帝国全体の原則

…ドイツやソ連に追い立てられ、アメリカ、イギリス、スウェーデンにさえも、門前払いを食わされているユダヤ人…「誰もが閉ざした扉を、どうしてあなただけが開いたのか?」…レビン教授の届かなかった手紙が杉原に問いかける…この疑問に駆られて、レビン教授は、杉原の子供時代からの一生をたどり、さらに当時の日本の外交政策まで、丹念に調べていく…そしてレビン教授が発見したのは、扉を開けていたのは杉原だけではなかった、という事だった1940年から41年にかけて、12以上のヨーロッパの都市の日本領事館で、ユダヤ人へのビザが発行されていた…

…特に目立つのは、カウナスの他では、ウィーン、プラハ、ストックホルム、モスクワなどだ…その前提となったのが、1939年12月の、日本政府の5相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)で決定された「猶太(ユダヤ)人対策要綱」だった…

…ここでは、ユダヤ人差別は、日本が多年主張してきた人種平等の精神に反するので、あくまでも他国人と同様、公正に扱うべきことを方針としていた…当時の外相、杉原の直接の上司だった「松岡洋右(ようすけ)」はこう言っていた…「いかにも私はヒットラーと条約を締結した。しかし、私は反ユダヤ主義になるとは約束しなかった。これは私一人の考えではない。日本帝国全体の原則である。」…

…当時の外務大臣、松岡洋右(ようすけ)…
…たまたま、私の手元にあった松岡洋右が上梓した書物です…この書物の内容も目が覚める…

8.難民を感動させた神戸での援助

…いわば、ヨーロッパ各地の日本領事館の扉は、人種・国籍に関わらず、ユダヤ人に対しても公平に開かれていたのである…そして杉原は、たまたま多数のユダヤ人難民が追いつめられていたカウナスで、職権上許されるギリギリまでその扉を広く開けて、彼らを迎え入れたのであった…杉原はソ連の命令でカウナスの領事館を閉ざしてからも、プラハの領事代理となり、そこでさらに多くのビザを出した…

…この頃、松岡外相は各国派遣大使の大量馘首(かくしゅ:免職のこと)に着手していたが、杉原はそれを免れている…外務省は杉原の行為を問題視していなかったのである松岡の言う「日本帝国全体の原則」は、ビザ発給だけではなかった

…難民たちはシベリア横断鉄道の終点、ウラジオストックから、船で敦賀港に渡り、神戸に出る…日本の警察官、通関担当者はみな親切だった…前節のL・カムシ姉妹は、「杉原ビザ」の滞在期間が10日間なのに、2ヶ月間も神戸に留まる事が出来た…神戸ではユダヤ人協会や、多くの神戸市民が援助してくれた…その後、アメリカにいた親戚から届けられたビザでサンフランシスコに渡った…今はニューヨークの郊外で暮らしている…ビザのとれないユダヤ人には、上海に渡る道があった…当時、この国際都市は日本軍占領下で、2万7千人を超すユダヤ難民が比較的安全に暮らしていた…

9.杉原とシンドラーとの違い

…杉原は「日本のシンドラー」とよく呼ばれるが、両者の行為は本質的に異なる…私財をなげうって、ユダヤ人たちを助けたというシンドラーの行為は、あくまで個人的な善行である…それに対して、杉原の行為は、「日本帝国の原則」に基づいた国策に則ったものであった…それは、人道と国際正義にかなうものであると同時に、我が国の国益にもつながるものであった…1904年、日本がロシアからの侵略から日本の独立を守るべく日露戦争に立ち上がった時ロシアのユダヤ人同胞を救おうと日本に協力したのがアメリカのユダヤ人指導者、銀行家のジェイコブ・シフであった日露戦争の総戦費19億円のうち、12億円がシフを通じて引き受けられた外債によるものだった…日本人はシフの助力に深く感謝し、ユダヤ人への好意を抱いた…

…1924年に成立したアメリカの移民法は、日本人とユダヤ人の移民に対して、もっとも厳しかった…

…行き先を失ったユダヤ人は難民として中東欧にとどまり、反ユダヤ主義の標的となった…日本人移民はアメリカから閉め出され、満洲に向かった…ユダヤ人が独ソから追い立てられ、米英からも閉め出されて逃げ場を失った時、日本も英米のブロック経済化と、石油や鉄鋼、機械などの対日禁輸政策により生存圏を奪われつつあった…この時、日露戦争時と同様、日本は生存のために、ユダヤ資本との結びつきを探っていたのである…ユダヤ人と日本人は、共通した悲劇的運命を生きつつあった。そこに互いへの同情と連帯の心が生まれるのは、自然の成り行きと言える…

10.「文明国」とは

「世界はアメリカを文明国という…私は、世界に日本こそが文明国だということを知らせましょう」…杉原の言葉は、このような状況の中で発せられたのである

…それは広大な国土を持ちながら、人種差別感情から日本人やユダヤ人移民のみを厳しく制限したアメリカへの痛烈なしっぺ返しであった…杉原の言う「文明国」とは、進んだ科学技術や経済力を持つ国の事ではない…その国策が、国益を追求しながらも、同時に人道と国際正義にかない、他国との共存共栄を目指す国、と定義できよう

…ユダヤ人の虐殺や追放を国策とした独ソは言うにおよばず、人種的理由から厄介者扱いした英米もこの点では「文明国」とは言えない…杉原は、少なくとも人種平等という点においては、日本の方がはるかに文明国であることを知らしめようとしたのである…その行為は、個人的な善行というよりは、日本国民を代表する公的なものだった…そして日本政府の一貫した方針でもあった…

…レビン教授は次のように言う…『私の著書「千畝」は、そう遠くない将来、ハリウッドで映画化されることになっている…この映画が公開されれば、世界中の人が「スギハラ」という日本人を知ることになる…世界中の人々が、彼の精神や行動を育んだ日本の風土と文化に強い関心を持つことになるだろう…そして、これまで以上に日本人に対してさらに深い尊敬の念を抱くだろうことを私は期待している…杉原への尊敬の念は、日本人全体におよぶべきものだ、とレビン教授は言うとするなら、現代の我々は、それに値するような「文明国民」となるという課題も同時に継承していると言えよう。… と、まあ、これが真実 (-.-)

…ということで、この「ヒレル・ロビン教授」のプロフィールをご紹介しましょう…

…現代のアメリカを代表する歴史家の一人。社会学者。著作家。1946年生まれ。ハーバード大学より、「ユダヤ主義と近代主義」で博士号を取得。ハーバード大学、エール大学を経て、現在ボストン大学教授。ユダヤ学研究所所長。ハーバード大学ロシアセンター理事。北京大学をはじめ、主要大学の客員教授を兼務。現在、ヘブル語・ドイツ語・フランス語・イタリア語などへの翻訳も進んでいる。ボストン在住
千畝 一万人の命を救った外交官杉原千畝の謎』より//

杉原千畝がネイサン・ブルマンさんに発給したビザ(写真は実物)=東京都中央区【時事通信社】 第2次大戦中にユダヤ人のビザ…
…千畝の署名入り、査証(ビザ)…
杉原千畝(すぎはら・ちうね) 1900年、岐阜県生まれ。リトアニア中部カウナスの日本領事館に領事代理として駐在していた…

…で、下の写真は、このメルマガの発信者、「伊勢雅臣」の紹介です…/

1953年東京生まれ。東京工業大学 社会工学科卒。
日本の大手メーカーに就職後、社内留学制度により、アメリカのカリフォルニア大学バークレー校に留学。

工学修士、経営学修士(MBA)経営学博士(Ph.D.)を取得。
生産技術部長、事業本部長、常務執行役員などを歴任。

2010年よりイタリア現地法人社長。
2014年よりアメリカ現地法人社長を歴任。
イタリアでは約6千人、アメリカでは約2.5万人の外国人を束ね、過去最高利益を達成するなど成果を上げてきた。

これまでの海外滞在はアメリカ7年、ヨーロッパ 4年の合計11年。
駐在・出張・観光で訪問した国は 5大陸36カ国以上に上る。

1997年9月より、社業の傍ら独自に日本の歴史・文化を研究。
毎週1回・原稿用紙約15枚の執筆を22年間、正月休み以外は毎週続け、発行したメールマガジンは1148号を超える。

筑波大学等でも教鞭をとり、日本の未来を担う「国際派日本人」の育成に尽力している。…

…と、まあ、こんなお人です…(^^)/~~~

…で、ワタシの周りは緊張感が必要ない春爛漫…

…4月11日、午前6時過ぎの散歩コースです…
…ここに流れる水は、ほぼ、富士山からの伏流水です…

…最後の写真は、萩原さんと二人で作業に行った(若い社員は表舞台、年寄り2人は裏方です)、ダイヤランドの自社物件(ログハウス)敷地に咲く「ベニバナマンサク」の木花です…背後の建物…「売看板」が取り付けられないままですが「売物件」です。

…おわり…

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