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20240517-山さんブログ-その80

…さて、本日のイチオシは、ナンと言っても…私の誕生日(-_-;)…少しは目出度くも有り、大きくは愛でたいにはほど遠い…しかし、こんな私にも「紅顔の美少年」と、観られた時代も確かにありました…そしてこの自己主張の半分は当たっているのだ…なんせ、「紅顔の美少年」の意味は、「若々しく美しい少年」を指しますからね…前半の意味には、私も含まれることについて、どなたにも異存が無いものと思います…

…しかし、世界を見渡すと、その「紅顔」部分を迎えられないこども達が沢山居ることも確かなことで、パレスチナとハマスとの紛争、ウクライナとロシアとの戦争、その濃いい影に隠れたアフリカやその他の国の貧困世界のこども達の多くが命を落としている事実にも胸を締め付けられますね…

…人口が28万人と言われる「ガザ」地区に、各地を追われた100万人が避難していると聞きます…ここにもイスラエルは大規模攻撃を仕掛けるのでしょうね…ネタニヤフのやっていることを見ていると、敵対するアラブ人戦闘員だけに止まらず、イスラエル人以外の人間は、子供であれ、大人であれ、同地域内のアラブ人の全員を殺戮する意図があるように思えてなりませんね…人間のやることとは思えません…共存という選択肢がナゼ排除されるのでしょう…

…過激な一神教的上の民族が犯す過ちの連鎖とでもいいますか、中東地域での戦争は人類の歴史そのものですね…

…で、この視点で日本の「大東亜共栄圏」構想とその実施の経緯を見ていると、まさにアジア圏における「共存推進」そのもでしたね…

…で、この課題を深掘りすると長編に入り込んでしまいますので、三段跳びでこのステージを後にし、今日の話題を、少し旧い時代の身近な庶民の英雄…二宮金次郎にスポットを当ててみましょう…

…この二宮金次郎、後の「二宮尊徳」については、多くの人が知らない「偉業」があります…わたし自身、最近までは、薪を背負いながら本を読んで勉強した立派な人…その程度の認識しかしておりませんで、恥ずかしいことです…私の小学校は兵庫県の片田舎ですが、そこにも「二宮金次郎」が、薪を背負って歩きながら書物を読んでいる「像」がありました…思い返せば、日本中の小学校に同じ光景が見られた事象です…二宮尊徳について、「武者小路実篤」は、「彼がどんな人」かを知らないのは日本人の恥だと思う。と言い、それ以上、世界の人が「二宮尊徳」の名を知らないのは我らの恥だと思う…というようなことを言っているぐらいですからね…

…子供の頃、見慣れた光景です…

…まして、私たちの住む所在地のほぼ「隣」と言って良い距離…小田原の人です…この「二宮尊徳」を題材にして、昭和35年生れ、愛知県出身の「北 康利」が、私が愛読する「致知」に「世界に誇るべき偉人の生涯」という副題を得て連載を始めています…今、読んでいる6月号が3回目ですが、転載してみたくなりました…

…北康利の著書は多いものの、私は「白洲次郎 占領を背負った男」以来の出会いです…

…第3回目は、「一家離散からの生家再興」です…

=愛する母の死=

 金次郎は、朝は暗いうちから早起きして田畑の世話をし、夜は草鞋(わらじ)作りをして一家4人の生計を支えようとした。だが父、利右衛門のいなくなった穴を埋めるには至らない。そのうち、食べるものにも事欠きがちになっていった。

 利右衛門が亡くなって3ヶ月ほどが過ぎ、享和元年(1802年)の正月がやってきた。年始には神楽(かぐら=獅子舞)が家々を回ることになっている。その年も神楽の笛の音が近くまでやってきた。

…明治になって政府が、一町村一社の方針を出したことにより、栢山(かやま)神社に統合されたが、金次郎の頃の東栢山には、八乙女権現社(やおとめごんげんしゃ)、白鬚社(しらひげしゃ)、稲荷社の三社があっ……

 「神楽が来たけど一体どうすればいいのやら…」母、よしはもう弱り切っている。家中探してもお金はびた一文ないからだ。100文出すと神楽を舞うが、舞わせたくなければ12文を渡して帰ってもらう決まりだ。それが神社の維持費にもなっていた。(12文は現在の500円前後)

 「僅か12文がないとは誰も信じてはくれますまい。皆、田に出かけて一人も家に居ないふりをしてやり過ごしましょう」金次郎はそう言うと、しっかりと戸を閉じて息をひそめた。

 間もなく神楽が来て戸口の外でお祝いの言葉を口にしたが、返事をせずにいると、そのうち笛の音は遠ざかっていった。彼らはもう命をつなぐのがやっとの有様だったのである。

 この翌年(享和2年)3月24日、よしの父、川久保多太兵衛がこの世を去った。「よし」は子どもたちを連れて川久保家へと向ったが、彼らの着物があまりにもみすぼらしいことに驚いた親戚たちから、「あんたたちは葬式に出ないでおくれ…」と言い渡された。

 惨(みじ)めなことこの上ない。愛する父親の葬式に出られないなどということがあっていいものか。「よし」は泣く泣く帰宅したが、よほどこたえたのだろう。葬式から帰るとどっと床についた。「おっかさん、頼むから食べてください」…なけなしの米を粥にして口元にもっていっても食べてくれない。完全に生きる気力を失ってしまっていたのだ。

 金次郎たちの看病もむなしく、よしは10日ほどで息をひきとった。享和2年4月4日、満34歳の若さだった。金次郎14歳、友吉11歳、富治郎2歳の時のことである。1年半ほどの間に、父に続いて母まで亡くしてしまったのだ。しかも二人の弟を残して。これほどの不幸があっていいものか。

 しかし運命はさらに過酷な追い打ちをかけるのである。残された田畑で何とか弟たちを養っていこうと決意した金次郎は、親戚たちに手伝ってもらい、何とか田植えをすることができた。ところがそれから1ヶ月もしない閏(うるう)5月29日(太陰暦(月の一巡による暦)を採用していた当時は、3年に1度、閏月を加えて一年を13ヶ月とし季節のずれを調整した)の夜、またしても酒匂(さかわ)川が氾濫し田植えの終わった田畑もろとも流し去り、最後の希望をも打ち砕いてしまうのだ。

 二宮尊徳(金次郎)は後年、当時味わった度重なる不幸を振りかえり、こう語っている。

…幼年の困窮艱難、実に心魂に徹し、骨髄に染み、今日なお忘るること能(あた)わず…

=「積小偉大」開眼=

 江戸時代というのは互助制度のしっかりした時代だった。「五人組」という隣保があり相互互助と治安維持に力を発揮した。この組織は戦時中「隣組」として復活し、現在の自治会や民生委員のルーツとなっている。

 金次郎の所のように困窮した者は、この「五人組」と親戚たちが相談をして今後の方針を決める習わしだった。話し合いの結果、幼い二人の弟は母の実家に預かってもらうことになった。母に焼香もさせてくれず、死のきっかけともなったあの川久保家だ。そこに預けざるを得ないのは忸怩(じくじ)たるものがあったが、数え15歳でようやく成年になったばかりの金次郎にとって年長者の決定に逆らうすべなどない。

 そして彼自身は伯父、万兵衛の家に身を寄せることとなった。家具家財、衣類などもすべて売り払い、自宅は西栢山の人が買って、そちらに移築された。それらの売却代金は万兵衛に運用を頼んだ。

 万兵衛は生家のすぐ南隣である。金次郎の父親の実家でもあり、一番関係の深い親戚だ。彼が兄弟3人を引き取ってくれれば離れ離れにならずにすんだなずだが、万兵衛には無理だったのだ。妻を亡くした直後で、彼の田畑も先の水害でその多くが砂礫地になっていたからだ。金次郎の田畑もあわせて収穫を増やしていけば、金次郎一人が増えてもなんとか養っていけるという算段であった。

 こうして伯父といとこたちとの生活が始まる。いつか生家を立て直し、弟たちを呼んで一緒に暮らすことが金次郎の目標となった。万兵衛もまた折を見て利右衛門(金次郎の父)の家を継がせるつもりだった。

 耕作以外に、毎朝毎晩の戸の開け閉め、水汲み、庭掃除、夜の行灯の用意など、やらねばならないことは山のようにあった。それでも金次郎は細々と学問を続けていた。それが心の支えだったと言って良い。…行いて余力あれば、すなわち以(もっ)て文を学ぶ…後に金次郎は「論語」の学而(がくじ)編のこの一節を読んで思わず苦笑したが、昼夜こき使われている金次郎にとって“余力”を捻出するのは至難の業であった。

 お昼の弁当の時間でも、小作人たちが湯を沸かしてお茶を煎れ、ゆっくり食べるのを横目に、金次郎は冷飯に水をかけてかき込み、空いた時間で本を開いた。柴刈りの行き帰りには今まで通り論語などを暗唱することを忘れなかった。(…山さんによる余談であるが、この時代の日本人の識字率は70~80%、アメリカは40%弱、中国やお隣の韓国は数%と言われている…韓国の識字率が上昇したのは、日本統治による治政以降であることが証明されています…余談、終わり)

 夜も寝る時間を節約し、行灯の明りで書を読んだ。行灯は1ワット強の明るさでしかないが、それでも油1升(1.8リットル)で米2升(山さんはこの単位は間違いかと考えます(-_-;))が買えたというほど油は貴重なものだ。その為、万兵衛は金次郎が夜、本を読むのを嫌った。行灯は暗くなってから農機具の手入れや草鞋編みなどにするためのものであり、本を読むなどと言うのは無駄でしかないというのである。「早く寝ろ」そう言って叱られるのが常であった。

 万兵衛は、あのお人好しだった利右衛門(金次郎の父)の兄である。決して悪い人ではない。彼からすれば金次郎が早く一人前になるよう厳しく育てていただけっだろうが、それは父母を失って傷ついた金次郎にとって、ことのほか辛いものであった。

 夜、行灯の明りで本を読んでいるときの利右衛門は実に楽しそうで、自分も本を読めるようなってくると父親の気持ちがよく分かった。それを禁じられるのは、自分の父親が否定されるようで、何とも切なかった。光が漏れないように工夫もしたが、どうしても見つかってしまい、小言を食う。諦めきらない金次郎は策を講じた。

 享和3年(1803年)の秋、16歳になったばかりの時、5勺(しゃく、約90CC)ほどの菜種(菜の花の種)を分けてもらい、仙了川の堤に接する砂地に蒔いたのだ。それが育つのを見るのがどれほど楽しみであったかしれない。翌年の春、7升(12.6リットル)ほどの菜種を得ると小躍りするようにして、隣村の油商、嘉右衛門のところで精油してもらった。

…仙了川の堤に建てられた顕彰碑…

 これで行灯の油は確保した。万兵衛に事情を話し、「おまえの燈油で読むのであれば…」と了解してもらったが、お互いなんとなく気まずい思いが残った。(…早くこの家から出ていこう…)そう決意を新たにするのであった。

…と、ここで今回の物語を閉めます…続きは次回のブログで転載します…<(_ _)>言い訳…転載は疲れるのだ…(-_-;)

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