20240825 山さんブログ…その90
…今回も感動の山に埋もれながら読み進めている月刊誌「致知」…これ以外の購読紙となる隔月誌で、表現者「クライテリオン」の今号は、私が購読し始めてからのベストスリーに推挙できる内容ですが、如何せん、こちらは「致知」のような、生身の者が絞り出す体験からの悟り…という類いの共鳴・共感を呼び起こす「生の声」ではなく、どちらかと言えば各界リーダーの社会哲学思想…どうしても固くなります…固くなりながら唸らされていますが、その内容の紹介は差し控えて表紙の紹介だけにしましょう…いい~書籍ですよ~(^o^)…でも、やっぱり、ちょっとだけ…<(_ _)>
…今号はどのタイトル記事も秀逸でしたが、若手の仁平千香子(昭和60年生れ)さんの、「信仰なき者には使命感もない」…という記事が新鮮でした…この場合の「信仰」は「哲学」を指しています…ここでは政治哲学の話とでも言いますか…そしてその哲学の無さが、政界に蔓延する堕落とでも言っているようです…この方の記事も全文掲載したいところですが、後に「致知」からの記事掲載が待ち受けていますので省略します…因みにこの記事の中で仁平さんは、4年ほど前に亡くなられた台湾の元総統、李登輝さんの人間性や政治思想、その生き様を通して政治家のあるべき姿を求めています…
…彼女を知るためのステップとしては、「故郷を忘れた日本人へ」という単行本があります…一度は読んでみる価値がありますぞ(^o^)…すべての日本人…特に若者に伝えたい「正義」の見方、「信頼」のありかた、大地に根ざす「自立心」の育て方など、杓子定規になりがちな手法について、平易な言葉で共感させると思いました…
(^o^) (^o^) (^o^)
…で、前回ブログから今日までの間に「目から鱗」の学習となった単行本の「検閲官」についても触れないわけにはまいりません…と申しますのも、戦後、GHQ主導で、僅か1週間で練られた憲法素案と言われる事実のもと、憲法第21条2項では「検閲はこれをしてはならない」…という大原則を打ち立てられてていますが、何のことはない、当のアメリカ(GHQ)主導で、戦後の数年間、日本人のインテリを大量(少なくとも数百名とも言われています)に採用し、書籍はもとより、数年にわたり「手紙」の検閲を行っていたとのこと…まっ、当時の戦勝国がやりそうなことですから驚く事でもありませんが、つい先日、たまたまの終戦記念日にあたる8月15日、朝から読み始め一気読みしたのが下の写真の「検閲官」でしたから、深く考えざるを得なかったですね…
…この書籍は著者が戦後50年経過した後、検閲の事実を体験記として公表した暴露本的歴史書とでも言うべきでしょうか…原著では「敗戦秘史」となっています…ともあれ、眠れる獅子が目覚めたのか、はたまた本人にも罪の意識があっての贖罪(つみほろぼし)行為か…上島嘉郎さんの手により原著に比べると随分読みやすくなっています…問題は、検閲はこれをしてはならない…との大原則を打ち立てながら、裏側で大規模な検閲を行っていたという「闇」や「嘘」や「傲慢」がアメリカの日本統治であったひとつの証左ですが…同じように、今の時代の為政者たちの隠れた人間性であるなら…怖いですね~、若い頃の私の女性問題どころではないですよ…いや、そうではない…私は私で許されない(>_<) <(_ _)>
…そんなこんなやで、「致知」に戻りましょう…
…映像作家…安武信吾さん…はなちゃんの味噌汁…父は娘を交育てた… という特集
…母親をがんで失った5歳の女の子が父親のために毎朝みそ汁をつくり続ける姿を描いた実話『はなちゃんのみそ汁』は大きな感動を呼んだ。死別から15年以上の歳月が経過。はなさんと父・信吾さんは今日までどのような人生を生きてきたのだろうか。いじめや反抗期など様々な問題に直面しつつも絆を深めていった親子の歩み、貫いてきた妻・千恵さんの願いを信吾さんに語っていただいた…
…食べることは生きること…
一人娘・はなが台所に立ち、みそ汁をつくり始めたのは2008年2月20日、5歳の誕生日でした。妻の千恵は、はなの4歳の誕生日にエプロンと包丁をプレゼントし、それから1年間、包丁の使い方や調理の段取りを教え、一緒に朝食のみそ汁をつくりました。しかし、5歳を迎えたのをきっかけとして、千恵は一切口出しすることをやめ、鰹節を削って出汁をとるところからすべてをはなに任せたのです。
末期がんだった千恵には「はなが1人でも生きていけるように」という思いがあったのでしょう。はなもまた、千恵との約束通りに毎朝、台所に立ち続けました。
千恵の乳がんが判明したのは2000年7月。手術や抗がん剤治療で一度はよくなったものの、はなが生まれて間もなく再発。やがて全身に転移し、主治医からも手術は不可能と言われる状態でした。2008年春の大型連休を過ぎた頃から体調が急激に悪化したことを思うと、みそ汁づくりをすべてはなに任せたのは、すでに自分の死を予感していたからなのかもしれません。
6月には「もって1か月」と余命宣告を受け、翌7月11日、ちょうどがん宣告を受けた同じ日に33歳の生涯を閉じるのです。
千恵は地元の福岡教育大学大学院を卒業して念願だった小学校の音楽教諭として働き始めました。僕が記者として勤めていた西日本新聞社宗像支局に真っ白いワンピースを着た女性が訪れ、コンサートの記事掲載と後援の依頼を受けたのですが、これが12歳年下の千恵との出会いでした。
乳がんが見つかったのは交際を始めてからしばらくの頃。千恵は罹患したことで大好きだった教師の職を辞せざるを得なくなりました。2001年、僕たちは結婚し、やがて千恵は赤ちゃんを身籠もりました。がん治療後に妊娠をすると卵巣の女性ホルモンが活発になり、再発のリスクが高まるといわれています。一度は堕ろすことを考えたものの、最後には産むと決断。それからの千恵はまるで迷いが吹っ切れたように逞しく明るくなりました。
千恵がはなにみそ汁づくりを教えたのは、自らの死期を意識していたことともう一つ、食の大切さを伝えたいという思いがあったからでした。
はなが通っていた高取保育園(福岡市)では、「命あるもの、生命力に溢れたものを食べれば心身は健康になる」という考えのもと、保育の中核に食を位置づけています。玄米や納豆、みそ汁、煮物などが給食の定番メニューで、食材となるみそは年長組の園児たちが毎月100キロ仕込みます。
千恵はこの園の方針にいたく共感し、以来、食への関心を高めていくのです。食材を丸ごと使う環境にやさしい調理法・ホールフードを福岡に普及させることには最期まで情熱を燃やしていました。
はなが1人でみそ汁をつくり始めた頃、福島県の少年が母親を殺害する事件が起きました。ラジオでそのニュースを聴いた千恵が「家族で食卓を囲んで毎朝、ご飯とみそ汁を食べる環境で育っていたら、きっとこの事件は起こらなかったんじゃないかな」とポツリと呟いたことがありました。
千恵の書棚から、「弁当の日」という食育を提唱された竹下和男先生の本を見つけたのは、千恵の死後、しばらくしてからのこと。
「日本中の家庭が毎朝毎晩、食卓を囲むことができれば子供たちの問題行動は10分の1に減る」という一文に線が引いてあるのを見た瞬間、千恵がはなにみそ汁をつくらせようと思った本当の理由が理解できた気がしました。と同時に「食べることは生きること」という自身の願いを、僕とはなに託そうとしたことを確信したのです。
やすたけ・しんご
昭和38年福岡県生まれ。63年西日本新聞社に入社。久留米総局、宗像支局、運動部、出版部、地域づくり事業部、編集委員を経て令和2年退職。現在は「食」「いのち」をテーマにしたドキュメンタリー映画を制作。『弁当の日 「めんどくさい」は幸せへの近道』で初監督、『いただきます みそをつくるこどもたち』ではプロデューサーを務める。著書に『はなちゃんのみそ汁』『はなちゃんのみそ汁 青春篇』(共に文藝春秋)など。
はなちゃんがみそ汁をつくり続ける理由
最後まで奇跡を信じて疑わなかった僕は、千恵の死をなかなか受け入れることができませんでした。絶望に打ちのめされて酒と煙草が手放せなくなり、精神安定剤がなくては眠ることもできませんでした。千恵の遺影の前で泣かない日はないくらい、途方に暮れた毎日を過ごしていました。
千恵の死から1か月ほど経った頃、ある光景に出合い、僕は目を覚まさせられる思いがしました。5歳のはなが台所に立っているではないですか。はなは千恵との約束を思い出し、その日から毎朝、僕のためにみそ汁をつくってくれるようになったのです。
当時、僕は好きだった調理をする気力さえ失い、もっぱらコンビニ弁当やカップ麺ばかり買ってきて食べさせていたので、はなも子供心に「このままではいけない」と思ったのかもしれません。
後日談ですが、僕たち親子のことがテレビ番組で取り上げられた時、「はなちゃんはなぜ毎朝みそ汁をつくるの」とディレクターに質問されたはなが「パパが笑ってくれるから」と答えていました。夜、ぐっすり眠っているとばかり思っていたはなが、実は薄目を開けて遺影の前で泣き続ける僕の背中をずっと見ていたと知った時には、涙が止まりませんでした。
「弁当の日」は、親の手を借りることなく子供が弁当をつくって学校に持ってくる取り組みです。子供の健全で揺るぎない自己肯定感を育む手段の一つで、「してもらう側」から「する側」への成長のチャンスでもあります。竹下先生は、大切な人のためにご飯をつくって「自分は人の役に立つ存在だ」と自覚するための環境づくりが必要だと強調されますが、精神的に成長したはなの姿を見ながら、その言葉を噛み締めている自分がいました。
もともと腎臓に持病を抱えていた僕はその頃、生活リズムが不規則な記者の現場を離れて出版部に異動していました。千恵が闘病中は、千恵の様子を見ながら夜泣きするはなにミルクを与え、朝、眠たい目を擦りながら職場に行くのが常でしたが、千恵の死後も仕事の傍ら、家事や洗濯、保育園の送迎、はなが小学校に入ると今度は子供会、PTAとあまり記憶がないくらい慌ただしく走り続けていました。
夜、保育園に迎えに行くと、「パパが迎えに来たよ」という保育士さんの声を聞いたはなが、読んでいた絵本を放り投げて駆け寄り抱きついてきた日々は、いま思い返しても胸が苦しくなります。
ただ、確かに大変な毎日ではありましたが、僕はこの大変な子育てをもう一回やれと言われたら、もしかしたら喜んでやるかもしれません。肉体的には確かにしんどい毎日でした。しかし、「あの時、こうやっておけばもっとうまく子育てができたのに」と思うことがいくつもあるし、今度はもっと上手に子育てができる自信があるからです。そんな僕でも、思い出したくない出来事があります。それはその後に訪れる、はなに対するいじめと反抗期でした。
母・千恵さんとの約束を守り、台所に立つはなさん
「自分より大事な存在に出会えたことは人生の宝」
はなは2015年、福岡市内の中学校に入学しました。自分が歩いてきた音楽の道を娘にも体験させたいという千恵の思いを感じていたのでしょうか、はなはすぐに吹奏学部に入部しました。
「最後まで絶対にやり通すから。パパ、お願い」
そう言って意気揚々と入部したはなでしたが、2か月も経たないうちに「辞めたい」と言い始めました。大会のメンバーに選ばれることを目標に毎日遅くまでクラリネットの練習に励んでいただけに信じられない思いでしたが、聞いてみると、原因は吹奏楽部内での無視でした。はなは昼休みも仲間の輪に入れてもらえず、1人で弁当を食べていたと言います。
「それっぽっちのことで辞めるんか。根性ないな」
思わず発したひと言でしたが、後の祭りでした。はなは目にいっぱい涙をためて訴えました。
「ママがいなくなった後も、ずっとそうだった。独りぼっちでご飯を食べる寂しさはパパには分からんやろっ」
考えてみたら、はなは小学1年生の頃から誰もいない自宅に帰り、冷蔵庫の中の料理を温めて1人で食べることも多くありました。いつも「全然平気だよ」と強がっていましたが、内心辛かったに違いありません。
「ぶりっ子、うざい、死ね」と書かれたメモ用紙が学校の机の中に入っていた数日後、登校中に過呼吸を起こして歩けなくなったこともありました。
無視やいじめの原因ははっきりしていました。「父親のために毎朝、みそ汁をつくる女の子」の話題がメディアで取り上げられる機会が増え、とりわけ2012年に出版した『はなちゃんのみそ汁』の反響は大きく、映画やテレビドラマにもなりました。僕とはなは全国各地から講演やみそ汁づくりの講師として招かれることが多くなり、人気の著名人と共演する機会も頻繁にありました。無視やいじめは、そういうはなに対するやっかみだったのです。
先述の竹下和男先生から「すぐに部活をやめさせてください。はなちゃんを助ける方法はそれしか考えられません」というアドバイスで退部させることになり、それからというもの、はなは少しずつ平穏な心を取り戻していきました。
そういえば、中学1年生の時、はながこう言ったことがあります。
「ママはどうして、私を産んだのかなあ。もし、私を産まなかったら、いまも生きていたかもしれないよね」
僕は複雑な思いでこの言葉を受け止めましたが、ふと千恵が亡くなる2か月前に綴ったブログのことを思い出し、布団の中ではなに読み聞かせました。
ムスメがいなかったら、正直、ここまでも、これからも、頑張っていけたかどうか、わからない。ムスメに出会えたことは、私がこの世にいたという証しだ。自分より大事な存在に出会えたことは、私の人生の宝。サポーターの力は最強。私の人生の目的は、これだったのかな。
聞いているはなが笑顔で涙ぐんでいるのが分かりました。はなにはこの世に生を受けたことを肯定できる人になってほしい。そう願わずにはいられませんでした。
千恵さんと共にみそづくりに励む
「母の日」に贈られたプレゼント
はながそれまで毎日つくっていた味噌汁をつくらなくなったのは中学3年生の頃からです。いま思うと、それが反抗期の始まりでした。高校生になるといじめはなくなったものの約2年間、はなは口をきいてくれなくなり、化粧をして繁華街に出かけることもありました。僕ははなとの関係に心を砕きながらも朝昼晩食事の準備をし、はなのために弁当を詰めました。
そういう僕たち親子にとって一つの転機となる出来事が起きました。2018年12月、僕は浴槽から立ち上がった瞬間、意識を失ってバタンと倒れてしまったのです。持病の腎臓病の悪化が原因でした。意識を失っていた僕の耳に「信ちゃん、信ちゃん」という懐かしい声が聞こえてきました。
「はなが泣きよるよ。はなの所に行ってあげて……」
亡くなって初めて見る千恵の夢でした。ふと目覚めると、本当に目の前ではなが泣き叫んでいました。白目をむいて全裸で倒れている僕を見て死んだと思ったそうです。翌日、はなは早朝に起きて千恵の遺影に手を合わせ、「パパが倒れたのは私が悪かったから。ママ、ごめんなさい」と謝り、久しぶりに僕と並んで台所に立ちました。
僕たちは家事を分担していましたが、それからしばらく経ったある日、はなが「パパ、きょうはゆっくり休んでいて」と言いました。何かの記念日というわけでもなく、理由を聞いてみると、その日は「母の日」で、母の日のプレゼントだと言うのです。
「だって、パパはずっとお母さん役してくれたじゃない」
僕は一瞬、言葉が出ませんでした。驚きと喜びが入り混じった心境とはこのことを言うのでしょう、いまも忘れ難い思い出です。まさに「子育ては親育ち」。嬉しいことも悲しいことも、はなは今日まで数え切れないほどのプレゼントを僕に与えてくれたのです。
妻が教えてくれた幸せのあり方
千恵さんを追悼する意味を込めた音楽イベント「いのちのうた」にて、成長したはなさんと一緒にステージに立つ信吾さん僕たち一家は多くの方に支えていただきながらここまで歩いてきましたが、はなの人生に大きな影響を与えた1人に「給食の母」として知られる北海道の管理栄養士・佐々木十美さんがいます。
はなが中学生の時、はなを連れて十美さんの料理講座に参加したことがあります。そこで食べたカレーの味にすっかり魅せられたはなは十美さんに憧れ、十美さんと同じ管理栄養士になることを夢見るようになりました。
自宅からほど近い中村学園大学に栄養科学部があると知り、高校卒業後の進学先は同大学に照準を定めて勉学に励みました。結果的には管理栄養士ではなくフード・マネジメントの道を選択し今夏、はなが就職先として志望していた地元でも伝統のある食品会社に内定をいただくことができました。
一方の僕は2020年3月末、長年勤めた西日本新聞社を56歳で早期退職し、映像作家に転身しました。千恵の願いでもあり、また僕自身、新聞社時代から取り組んできた「食」と「いのち」をテーマにドキュメンタリー映画を制作するためです。
ありがたいことに僕が初監督を勤めた映画『弁当の日』は、食育活動を通して子供たちにどのように生きる力を身につけさせるかという具体策を示したものとして大きな反響を呼び、いまも全国で上映会が続けられています。
僕が千恵と出会い、子育てを通して貫いてきたことは、千恵の人生のテーマだった「食べることは生きること」です。たとえ生活は貧しくとも、家族で食卓を囲み、玄米と自家製のみそを使った具だくさんのみそ汁さえ食べておけば、十分に生きることができます。
そういう幸せのあり方を千恵は僕たちに教えてくれました。彼女が短い人生を通して伝えてくれた「食」と「いのち」の哲学をご縁のある方々に広く伝えていくことも、僕とはなに託された役割ではないかと思うこの頃です。
…と、まあ、こんな具合で、私は泣かされました…
…それより、今号ブログへの載せ方は映像権、肖像権、著作権、等などに抵触しそうな扱い方ですが、これも世のため人のため…重ねて目指す「致知」のため…きっと許していただけるでしょう…
…それにしても…「自分より大事な存在に出会えたことは人生の宝」…まったく…なんと、重みのある形而下(けいじか)の実像でしょうか…意図せず沈思黙考の山さん(-.-)
(=_=) (=_=) (=_=) (=_=) (=_=)
…最後に、お盆休みのとある一日…10年前に椎骨動脈を詰まらせて、ぶっ倒れてからの初挑戦…日帰り往復350キロのドライブに挑戦しました…行き先は長野県の「富士見高原」~「清里高原」…元気な頃は、ちょっとそこまで…のお気に入り(^o^)エリア…
…因みに我が家の嫁は、発汗機能が正常でない身体のせいで、暑さには滅法弱いのです…
…と言うことで、おしまい~、最後まで読んだ方はご連絡下さいませ…
…清水町の「ロアジ」へご案内しましょう…人数次第では割り勘…<(_ _)>