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20241117 山さんブログ その99

…過日、と言うか、13日の定休日、付き合ってくれる人の居ない孤独感に負けるわけにもゆかず、愛犬だけを供に紅葉祭りが終わって間もない山中湖へとプチドライブ…友人の一人は夏のような暑さだったと言いつつ、ゴルフを楽しんでいたとのこと…成る程、山中湖の気温も15度…元気なアングロサクソンの白人男性は半袖姿でサイクリングを楽しんでおりましたが、私は秋用のジャケットを羽織ってチンタラ散策…

…ところどころに、秋満艦飾…

…チンタラ散策の間、愛犬は湖畔をテリトリーにする白鳥に威嚇され、スタコラサッサと逃避する場面に、外国人は日本語のような外国語で笑っておりました…笑い声だけは万国共通用語だな…

…で、下の写真の白鳥(この時は100円の餌に夢中)は弱い者イジメを楽しんでいるようでもありましたが、さりとて私が白鳥相手に、白鳥としてあるべき倫理的哲学を説くわけにもゆかず、側に居た外国人親子の娘の方にだけ挨拶をして山中湖とバイバイした次第…

…左端に見えているのが、外国人親子の母親らしき御方の手…

…そんな穏やかな定休日の僅か半日の出来事でした…往復100㎞のプチ旅行…

…帰宅が午後の1時、遅めの昼食もそこそこに届いたばかりの書籍(グローバリストの世界覇権史)を30ページほど読んだだけで睡魔がドドドッ…愛犬と供に2時間ばかり夢の中…いやはや、まことに穏やかな水曜日でありました…(^^)/~~~

…んで、夢から覚めて再度「グローバリストの世界覇権史」に取り組んだものの…こりゃ~、前出のメインディッシュ本である「ビルダーバーグ倶楽部」を読んでからでないとホントの価値が分からないなと思い立ち、早速アマゾンで注文…但し原本はとっくの昔に絶版…しかもプレミアが付いて中古本が10万円だとか…ジョーダンで腰を抜かすかと諦めていたら、たまたま、2024年10月31日に「復刻版が」出たとのこと…11月14日に急いでアマゾンで注文(こちらは¥3,300円)し、16日着、んで、17日午前2時からの深夜読書で冒頭を深読み…世界の深層学習には、自分史過去本トップかと思えるスグレモノ…これは世界中のすべての人が読んだ方がいいな…と、思いつつ(=_=)…耽読、耽溺、ムムムのムッ…11月17日、ブログ公開までの早朝思惟…

…右がなかなか手強い生意気本…左が前出本で世界にセンセーションを起こした復刻本…

…ンで、時間をワープしましょう…

…この間、気持ちよく読み進めた「致知」の1テーマをご紹介しましょう…日本の三大饅頭の頭領とでも言うべき、「塩瀬総本家、第34代当主」川島英子さんの生き様です……日本の饅頭の元祖として創業から675年の歴史を紡ぐ塩瀬総本家。時代の風雪に耐え、代々の当主たちが暖簾を大切に守り続けてきた。第34代当主を務めた会長の川島英子さんは、今年満100歳を迎え、その矍鑠(かくしゃく)たる姿、淀(よど)みのない語り口はまさに圧巻である。

…時に優しく時に力強く、幾多の山坂を越えてきた人生体験を交えながら語る「人生百年時代を溌剌と生き抜くヒント」に学ぶ…だとさ(-_-;)

健康の秘訣は日常の習慣にあり——川島会長、お目にかかれて光栄です。素敵なお着物姿ですね…と、インタビュアーが切り出しますと…川島英子さんイワク…

…本当にありがたいことに、この歳になっても年中お客さんがいらっしゃって、「会長さん元気?」「会いたいわ」とか「長生きをもらいたいから握手して」って(笑)。そんなことでいつ誰が訪ねてくるか分からないから、変な格好をしていられないのよ。朝起きて寝間着のままでいたんじゃ、だらしなくて目が覚めない。やっぱり着物に着替えて帯を締めて髪を結うと身も心もシャキッとする。これは昔から習慣になっています。

——実にかくしゃくとされていて、100歳とは思えません。

…社員も大変なことがあると私のところに相談に来ますから、あまりボヤッとしている暇がない。お菓子屋をやっているおかげさまですね。緊張感や刺激が常にあるわけで、それがやっぱり元気の素、健康の秘訣ひけつじゃないでしょうか。いつの間にか100歳になっちゃったという感じ(笑)。

塩瀬総本家会長、第三十四代当主 川島英子 かわしま・えいこ

大正13年東京生まれ。昭和55年社長に就任し、第34代当主を継ぐ。60年中国杭州市の聚景園に始祖・林浄因の記念碑を建立(平成7年に林浄因の先祖の墓がある西湖国立公園孤山に移転)、11年会長に就任。著書に『まんじゅう屋繁盛記~塩瀬の650年~』(岩波書店)がある。

和歌を詠むことが生きるしるべ

——他に何か心掛けていることはありますか?

…それと、私は和歌をむのが好きでね。振り返るともう12歳の時からなんです。戦前の女学校時代に、着物を着てはかま穿いた女性の先生が国語の授業で和歌をお詠みになって教えてくださるのね。自分でつくって持っていくと「あら、よくできたじゃない」とめてもらえる。それが嬉しくて、以来ずっと和歌を詠むのが一つの楽しみになっています。これまでにつくった和歌はもう1,000首近くになるかしら。

…(-.-)ここは私(山下)が「えっ👂(*_*)、たった1,000首???」10,000首の間違いじゃろうな、と勝手に修整しましただよ…

——川島会長にとってその先生との出逢いは人生の土台を築いてくれたかけがえのない財産ですね。

…ええ、素晴らしい先生でした。心に浮かんだらそれを五七五七七に表す。喜んだり、悲しんだり、苦しんだり、あるいはしゃくに障った時も(笑)。和歌の中に気持ちを詠み込んで捨ててしまうんです。

——なるほど。和歌を詠むことによって自分の心を整理整頓する。

…そうするとスッキリしますし、クヨクヨしないです。これも元気の秘訣ですね。私はノートに和歌をすべて書き留めているんですけど、それに「道しるべ」という表題をつけているんです。この「道しるべ」は私にとって生きるしるべになっています。
私の場合は、和歌を詠んでモヤモヤした気持ちを捨てるという方法ですが、お茶をてることだったりゴルフだったり、人それぞれマイナスな感情やストレスを捨てる方法があると思うの。自分に合った何かを見つけて生き抜いていくことが大切ですよ。

「遊」の境地で仕事を楽しむ

——そういう意味では、100歳のいまなお携わる仕事があることも、大きいでしょうね。

…25年前に会長に退いて息子に当主を譲ったので、基本的にすべて息子や社員に任せていますが、じょうなまのデザインだけは全部いまも私が手掛けています。四季折々に春には春のデザインがあるし、クリスマスにはクリスマスのデザインがある。それも毎年同じっていうんじゃなくて、ちょっと変えるんですよ。お客さんも「今月はどんなお菓子かしら」と楽しみに来てくださっています。


…私が絵を描いて、工場の職人が試作して持ってくる。それをチェックして、「ここはこうしたほうがいい」という具合に手直しを重ねた上で店頭に並べる。これは私が当主になった44年前からずっと続いています。もっとも、初めの頃は私もまったくの素人でしたが、お菓子の神様と言われていた父の姿を小さい頃からずっと見ていましたので、手探りで少しずつつかんでいきました。


お菓子のデザインを鉛筆で描いたメモ帳が何冊もありますけど、出来合いではなく、すべて自分で生み出す。やっぱりデザインを考えるのも描くのも楽しい。それが仕事というか趣味というか。

——遊ぶが如く仕事に夢中になっておられる。

…そうですね。年中、季節感のあるお菓子をつくろうと楽しくやっています。だから、老け込まないのかもしれません。

四季折々に合わせた上生菓子のデザインは、いまも川島さんが手掛けている

働き者の両親が教えてくれたこと

——ご両親の働く姿をご覧になって育ってこられたということでしたが、いまも忘れ得ぬ教えや思い出はありますか?

…朝起きたら、もういないんです。当時は一階が工場で二階が住まいになっていて、父は白衣を着て、母はたすきを掛けて前掛けを締めて、朝早くから仕事をしている。そういう姿しか見ていませんね。住み込みの職人もいましたので、母は人数分のご飯を炊いておかずもこしらえて食べさせるでしょう。


…そうやって年中せかせか働いて商売やっているのが子供の頃は嫌で、将来はサラリーマンの奥さんになって優雅に暮らしたいとあこがれていたのよ(笑)。それで学校を卒業したらさっさと見合いしてお嫁に出ちゃったんです。でも、嫁入りする前も後も、家業の手伝いはしょっちゅうしていました。

——子供の頃から手伝いを。

…うちは宮内庁御用達(ごようたし)の店でしたから、戦時中は「もん」といって戦地で亡くなった方へのお悔やみとして、天皇陛下がご遺族になさる菊と桐の紋入りのお菓子をつくっていたんです。御紋菓をいただいたご遺族はそれをご仏前に供え、近所中に分けて配ったといいます。


…そういう大事なお菓子を一つひとつ薄い和紙に包んで6個ずつ箱に納める作業を私もやりました。当時はいくらやっても手が足りないくらい、それだけ戦死しているわけですよね。その時に母がよく言っていたのは、「このお菓子は兵隊さんの命と引き換えのお菓子だから、丁寧に包んで納めなきゃいけないよ」と。

——ああ、命と引き換えのお菓子。

…単純作業の繰り返しだったので、最初はついウトウトすることもありましたが、それを聞いてからは身の入れ方も変わりましたね。この言葉は本当にみます。


…また、父は「材料を落とすな。割り守れ」と耳にタコができるくらい言っていました。割りとは材料の配合や分量のこと。つまり、素材に徹底してこだわり、伝統の製法を守れと。戦後は宮内庁や料亭からの注文が途絶え、お砂糖などの材料もなかなか手に入らなくなりました。サッカリンをはじめ人工甘味料が出回るようになったんですけど、父は「まがい物はつくらない」の一点張り。材料がなければ代用せず売り止めにするという考えで、2年くらいは何もつくらずにそれまでの貯蓄や人のご縁で食いつないで暮らしていました。

——かたくなに信念を曲げなかった。

…その後、だんだんお砂糖が出回るようになってから、お菓子づくりを再開したんです。ところが、父は昭和28(1953)年に72歳で亡くなり、母が当主を継ぎました。その時分、戦地から引き揚げてきた若い男子が結婚するようになり、親がせめて息子の結婚式は立派にしてやろうというので、引き出物に塩瀬のおまんじゅうを選んでくださるようになったんです。


…大安の前日になると、明治記念館や平安閣や玉姫殿など50軒くらいの式場からご注文が重なって入ります。つくってもつくっても間に合わない。そうすると、決まって母から電話がかかってくる。「ちょっと手伝いに来て」って。大量のお饅頭を包装して配達の車に載せる。もう戦争ですよ(笑)。それくらい繁盛していました。

日本の饅頭の元祖であり、日本三大饅頭に選ばれた塩瀬総本家の名物「志ほせ饅頭」

塩瀬の歴史を変えた決断その拠り所になった思い

…ただ、忙しさのあまり無理がたたったのか、母が72歳の時にある日突然、倒れてしまってね。「店のすべての権利を英子に渡す」という母の遺言で私がいやおうなく後を継ぐことになったんです。昭和55(1980)年、56歳の時でした。

——第三十四代当主に就任された。

…もともと商売は嫌い、サラリーマンの奥さんとしてのんびり優雅に暮らしたかったけど、それどころじゃなくなった。きょうだいは私と妹の二人、長女の私がやらないわけにいかないじゃないですか。だから、ありがたくもなかったし、本意ではなかったのですが、迷いは全くありませんでした。


…主人は経理畑の人間で、割と大きな会社の経理部長を務めていたんです。それで主人に会社を辞めてもらってうちの経理を見てもらうだけではなく、それまでは昔ながらの個人経営のお菓子屋だった形態を株式会社化し、組織体制を盤石にしてくれました。


…当時はぎゅうり切り、あんなどそれぞれ専門の職人が計10人ほどいたんです。みんな先代の時代から長くやっていて、私もしょっちゅう手伝いに来ていましたので、家族のような関係ですよ。腕は確かだし、義理固くていい人たちばかりで本当に助かりました。

——ご主人や職人さんの支えがあって歩んでこられたのですね。

…塩瀬にとって大きな転機が訪れたのは私が当主になって3年目のことです。銀座「松屋」の方が何度も来られて、「リニューアルオープンするので、ぜひお店を出してください」って頼み込んできましてね。これまで歴代の当主たちは出店依頼をすべて断ってきていたんですが、私は「出させていただきます」って返事したの。
…塩瀬の起源はじょう5(1349)年、中国から来日したりんじょういんさんが奈良で饅頭をつくったことにさかのぼります。寺院に集う上流階級の人たちの心を射止め、やがて宮中に献上され、歴代将軍の催事に重用ちょうようされるようになりました。600年以上続く歴史の中で、ずっと卸売りを本業としてやってきて、一般のお客さんに一つ二つ売るという商売をしたことがなかったんです。

——社内の反応は?

…さっき申し上げたように、婚礼の引き出物需要が伸びていて実に売り上げの9割以上を占めていました。大きな式場にドサッと納めさえすれば後は全部やってくれますので、自分たちで売る心配がない。ですから、お店の連中は「なんでそんな面倒くさい商売をするんだ」って猛反対(笑)。


…それで仕方がないから無理強いで孤軍奮闘ですよ。お菓子を入れる箱から包装紙、ショーケース、店の飾りつけに至るまで、全部私一人で調達して準備しました。
…いざ開店したら、お客さんから喜ばれてものすごく売れたんです。そうしたら松屋だけっていうわけにはいかないの。髙島屋や松坂屋や西武そごうや伊勢丹など、いろんな百貨店から出店依頼が来て、出店するたびに売り上げは伸びていきました。いまでは売り上げの比率が逆転し、小売りなしに成り立たなくなっています。

——塩瀬の歴史始まって以来の転換であり、周囲からも猛反対されたにもかかわらず、小売りに進出するという決断の拠り所になったのはどういう思いでしたか?


…限られた人たちを対象にする商売ではなく、結婚する人もしない人も、老若男女問わず一般の人たちに塩瀬のおいしいお菓子を広く知ってもらうことが大事だと思ったんですよ。また、このまま卸売りだけをしていては、時代に取り残されてしまうのではないかという危機感もありました。


…結果的に、いまではブライダルの引き出物は和菓子よりも洋菓子が主流になりましたし、少子化で結婚式の件数も少なくなっていることを思うと、あの時の決断があったからこそ、塩瀬は倒産することなく今日までれんを守り続けることができたのでしょうね。

「材料を落とすな。割り守れ」という厳格な教えのもと、職人が毎朝一つひとつ丹誠を込めて手づくりしている

伝統を守りつつ挑戦する「温故知新」こそ老舗の道

——これまでのご体験を踏まえて長く愛されるお店、繁盛し続けるお店をつくるために不可欠なことは何だと考えていますか?

…私がずっと大切にしてきたのは、「おんしん」という言葉です。ふるきをたずねて新しきを知る。うちの場合、「材料を落とすな。割り守れ」の教えの通り、昔から配合やつくり方は一切変えていません。普通のお饅頭は小麦粉に膨らし粉を入れて皮をつくりますが、うちは小麦粉も膨らし粉も使わない。お米の粉ととろろ芋なの。もちろん膨張剤も入れません。だから、日が経ってもパサつかない。しっとりとしておいしい。これが塩瀬の独特のお饅頭なんです。


…職人が毎日一つずつ大和芋の皮をいてすりつぶし、お米の粉とお砂糖を混ぜた木鉢にそれを入れ、丹精込めて練り上げていく。固すぎず柔らかすぎず、ちょうどいいところでこね終える。その日の気温や湿度、お芋の個体差によっても微妙に変わってきます。このさじ加減が難しい。何十年と打ち込んでいる職人じゃなきゃ分からない。そういう昔ながらの製法をきっちり守り続けています。

——ものづくりに対するしんな姿勢が伝わってきます。

…「今日一日の事」「ざん先生の商人に与へたる教訓」(別掲)という代々受け継がれてきた家訓もまた、不易の教えとして心に留めて日々実行に努めていますね。老舗しにせの暖簾に安住せず、常に我欲を捨てて本業の商いにのみいちせんしんせよ、という心得が随所に説かれているんです。


 一方、先ほど申し上げた百貨店への出店をはじめ、売り方やデザインといった部分は時代に合わせて変化させていく。やっぱり暖簾を守り続けるには伝統を踏襲するだけではなく、日々創業の心意気で時代の流れを読んで絶えず新しいことに挑戦し、革新していくことが大切だと思います。

こだわらない、握らない放すことで運が開く

——幾多の山坂を越えて100歳を迎えられたいま、人生で一番大事だと思うものは何でしょうか?

…こだわらない、握らないことですね。握らないっていうのは欲をかかないこと。握ろうとすると逃げるの。だから、握らない。追いかけない。放すことです。

——欲に対して執着しないと。

…そうそう。こだわりすぎると運は開けません。私がつくった和歌に「利をはなれ 心のすべて 無なる時 有を生ずる 世とぞ知りたり」とあるけど、生き方のヒントはそれです。
…仏教に無常という言葉がありますね。人生は常ではない。浮き沈みがある。これが当たり前なのよ。だからいい時はいいように、悪い時は悪いように、それなりに生きていけばいいんです。気楽なもんでしょ(笑)。
…家訓の一つに「繁盛するに従つて益々ますます倹約せよ」とあるように、調子のいい時でも決しておごらず、沈む時に備えて蓄えておく。反対に調子の悪い時には決して腐らず、いまは沈んでいても後々必ず浮く時が来ると信じて、「無理なることをすまじき事」で慎ましく暮らす。ただし、歩みを止めない。どんなことがあっても絶対に投げ出したり諦めたりせず、やめないで細々とでも続けることです。

室町幕府8代将軍・足利義政公直筆の看板「日本第一番 本饅頭所 林氏鹽瀬」の前で

すべてに感謝するご先祖様を大切にする

——素晴らしい人生の教訓です。

…あと、何事にも感謝する気持ちを忘れないこと。これも大事です。いいことだけじゃなくて、悪いことにも感謝する。すべてに感謝する。嫌なことがあったら、さっさと捨てる。冒頭に申し上げたように、捨て所を見つけて生き抜いていくことですね。そうすると感謝せずにはいられない世の中になるんです。年を重ねるにつれそういう柔らかい気持ちにならなきゃダメ。


…塩瀬が675年もの歴史を紡ぐことができたのは、その時代時代の当主たちの努力で以て切らさずに続けてきたから、いまここに存在しているわけです。その間には応仁の乱だとか関東大震災、東京大空襲など、もういろんな浮き沈みがあったと思います。けれども、何とか生き抜いて暖簾を繋いできたっていうのは素晴らしいことですし、有り難いことですね。ご先祖様に対する感謝を忘れたことは片時もありません。

——ご先祖様に対する感謝を忘れない。

…塩瀬が京都で商いをしていた時代のお墓がけんにんりょうそくいんにあるんです。両親はそこへ毎年お墓参りに行っていました。私が当主になる前年、母と一緒に行った時、いつもお参りする笠つきの立派なお墓と林家一族の足跡が記されたごうとうの奥に、何か石のかたまりみたいなのが転がっていたんですよ。「あら」と思ってね。歩いて行ってみると、泥まみれの石に「しお」という字がかすかに目に入ったのよ。泥を拭き取ってみたら、「鹽瀬之墓」と書いてあって、その周辺に同じような墓石がいくつも見つかった。驚いてお墓を掃除し、お花とお線香をあげたんです。


…それでご住職に「ちゃんとおまつりさせていただきたいんですけど、いいですか」と言ったら、「そのような申し出をされたのはあなたが初めてです。ぜひそうなさってください」って。両足院にある家系図や過去帳と照らし合わせながら散在する墓石を年代順に並べ直し、笠つきのお墓の脇に移してお祀りしたんですよ。

——それにしても奥に転がっている墓石によく気づかれましたね。

本当に不思議ですよ。だから皆さん、おっしゃるの。「ご先祖様に呼ばれたのよ」って。

——ああ、お導きだと。

私がしたんじゃない。させていただいたの。気づかせていただいたの。やっぱりご先祖様があって、自分が存在している。自分一人の力で生きているわけじゃないんですよ。誰しもご両親やご先祖様から命をいただいて、常に守ってくださって、いまここに自分が存在していることを絶対に忘れてはいけません。
「継続は 宝なりとは 一族の いさおつぎし わが道しるべ」
…これが100歳を迎えたいまの私の心の叫びですね。ご先祖様を大切にして感謝を行動で示す、それも見返りを求めずに誠心誠意尽くすことによって、目に見えない不思議なお力添えに恵まれ、人生を何倍にも大きくしてくれるんです。そのことを若い方にはぜひ伝えておきたいと思います。……以上です。

…(-.-)と、まあ、やはりやはり、見事な生き様ですね…それにしても…34代…室町時代から675年…何という悠久の命…34代、すべての当主の心がけが素晴らしいものであったという証明ですね…いやはや、唸ってしまう私です…本日はここまでお付き合いいただき、ありがとうございました<(_ _)>

…お声を掛けていただければ、ここまでお付き合いいただいたお礼に晩秋のソロキャンプになりご案内しましょう…んっ(ё_ё)、それではソロではなくなるな…では、ソロソロ、と参りましょう(~o~)

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